序章-章なし
河の流れは常に絶える事がなく、しかも流れ行く河の水は移り変って絶間がない。
奔流に現われる飛沫は一瞬も止る事がなく、現れるや直に消えてしまって又新しく現れるのである。
世の中の人々の運命や、人々の住家の移り変りの激しい事等は丁度河の流れにも譬えられ、又奔流に現われては消えさる飛沫の様に極めてはかないものである。
壮麗を極めた花の都の中にぎっしりと立ち並んでいる家々は各々の美しく高い甍をお互に競争し合っている。
これ等の色々な人々の住家は何時の時代にでもあるもので決して絶えるものではないのであるが、さてこういう貴賤様々な人々の住家の中に不変のものを見出すと云う事は出来るものではなく、昔の儘に現在までも続いていると云う住家は殆んどなく、極めて稀に昔の美しさのある物を発見するのが頗る難しいことなのである。
この辺に美しい立派な住家があったのだがと見て見るともうその家は去年焼け失せて無くなっていたりする。
又こんな所にこんな立派な住家は無かったのにと思って見ると前の貧しい家は焼け失せて現在はこれほどの立派な住家になっていたりするものである。
この様に昔お金持であって立派な美しい住家に住んでいた人が今は見る陰もなく落ちぶれて昔の住家に比ぶれば掘立小屋同様の住家に住んでいたりする。
こんな運命が人々の歩まねばならないものなのである。
昔からの知り合いは居ないものかと見て見るとそうした人は中々に見付ける事が出来なくて、所も昔の儘の所であるのに、又そこに住んでいる人々も昔の様に多数の人々が住んでいるに拘らず、十人の中僅に二、三人しか見出す事が出来ない有様であって、真に人々の歩むべき運命の路のあまりにも変転極まりないのを見ると感動に堪えないものがある。
人間のこういう運命、朝に生れては夕に死して行かなくてはならない果敢ない運命、変転極りない運命、こういう事を深く考えて見ると全く、結んでは直に消え、消えては又結ぶ水流の泡沫の如きものではないかと思ったりする。
奔流に結び且つ消ゆる飛沫の運命、それが詮ずる所人々の歩むべき運命なのである。
一体多くの人々がこの世に生れ出て来るのであるが、これらの人々は何処から来たものであろうか。
そして又何処へ行ってしまうのであろうか。
等と考えて見ると何処から来、何処へ行くかと云う問いに対して答え得るものは何処にも居るものではなく、何処から来て何処へ行くかは永遠に解くを得ない謎であって人々はこの謎の中に生れ、そうして死して行くのである。
水に浮ぶ泡が結び且つ消える様に。
かく果敢なく、解くを得ない運命を歩まなくてはならない人々は又この世に於て何を楽しみ、何を苦しんで生きているのであろうか。
泡の如くに消えなくてはならない儘かの人生の中でどんな仕事に面白味を見出し又どんな事で苦しんでいるのかと多くの人々の答を求めたとすれば各種各様に答が出て決して一つのものにはならず、結局何を苦しみ、何を楽しんでいるのか、また何を為すべきか等と云う事も一つの永遠に解き得ない謎になってしまうのである。
長い年月の間に火事の為に、地震の為、或いは他の色んな変事の為に、立派な美しい家が無くなってしまったり、又お金持の家が貧しくなったり、貴い地位にあった人が賤しい身分に落ちぶれたりする、こうした人々やその住家の移り変りの極りない事は恰も朝顔の花に置く朝露と、その花との様なものである。
花は露の住家である。
露は朝顔の住人である。
露が先に地に落ちるか、花が先に萎んでしまうか、どちらにしても所詮は落ち、萎むべきものである。
露が夕陽の頃まで残る事はなく、又朝顔とても同じ事、朝日が高く登れば萎むべき運命なのである。
人々と人々の住家も所詮は朝顔に置く朝露と、朝顔の運命とを辿らねばならないものである。
どちらが先に落ちぶれるか、それは解らないが所詮は落ちぶれるものなのである。
自分はこの世に生れて早くも四十年と云う長い年月を暮して来たのであるが、物心が付いてから色々と見聞して来た世間の事には全く不思議なものが数々あるのである。
これらの多くの見聞したものを少し思い出して書いて見る事にし様。
昔の事ではっきりとは覚えていないのだが確か安元三年四月二十八日位であったと思うが、風の物すごく吹いている日で、遂には大嵐となった日の事である。
京都の東南部の某の家から折り悪しく火が出たのである。
何しろ強風の吹き荒ぶ時であったからたまったものではない。
忽ちの中に火は東北の方へと燃え拡がって行った。
そして遂には朱雀門や大極殿、大学寮、民部省等の重要な建築を一夜の中に尽く灰塵としてしまった。
この大火の火元の某家と云うのは後の調査によると樋口富の小路にある住家で、病人の住んでいたものであった。
燃え上った火炎は折からの突風に煽おられ煽おられて、それこそ扇を広げた様な型になって末ひろがりに広がって行った。
火元から遠くにある家々は猛烈な煙の為に全く囲まれてしまって、人々は煙に咽び、呼吸すら全く自由には出来ない有様であった。
炎上している家々の近くの道路は火炎が溢れ出て来る為に人々の通行を全く阻止してしまった。
都の大空は炎々と燃え上る炎の為に夜は火の海の如く真紅で、どれだけ強い火がどれだけ多くの家々を燃やさんとしているかを物語っていた。
又一方風は益々強くなるばかりで一向に静まりそうにもなく、その強風は時々火炎を遠い所へ吹き飛ばして又新しく火事を起して益々火事は広がって行くのであった。
嵐と火事の真只中に囲まれた京の人々は全く半狂乱でその為す所を知らずと云う有様、皆もう生きた心持もなく、唯々自然の成り行きにまかせて見ているより仕方がなかった。