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故郷

著者:魯迅

こきょう - ろじん

文字数:9,713 底本発行年:1973
著者リスト:
著者魯迅
翻訳者佐藤 春夫
底本: 故郷・孤独者
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序章-章なし

私はきびしい寒さを物ともせず、二千里の遠方から二十余年ぶりで故郷へ帰って来た。

冬も真最中まっさいちゅうとなった頃、やっとのことで故郷へ近づいた折から、天気は陰気にうす曇り、冷たい風は船室の中まで吹き込んで来て、ぴゅうぴゅうと音を立てている。 船窓から外をのぞいて見ると、どんよりとした空の下に、あちらこちらに横たわっているのはみじめな見すぼらしい村であった。 活気なんてものはてんであったものではない。 自分の心にはおさえ切れないうら悲しさがこみ上げて来た。

ああ、二十年このかた忘れる日とてもなかった故郷はこんなものであったろうか。

わが心に残っている故郷はまるでこんなところではなかった。 故郷にはいいところがどっさりあったはず その美しいところを思い出して見ようとし、その好もしい点を言って見ようとすると、私の空想は消えてしまい、現わす言葉も無くなってしまって、目の前に見るとおりのものになってしまう。 そこで私は自分に言って聞かすには、故郷はもともとこんなところだったのだ。 ――昔より進歩したというのではないが、それかといって必ずしも私が感ずるようなうらさびしいところでもない。 これはただ自分の心持が変ってしまっただけのことなのだ。 というのは自分が今度このたび故郷へ帰って来たのは、決して上機嫌じょうきげんで来たのではないからだ。

私は今度は故郷に別れを告げるために来たのである。 私たちが何代かの間一族が寄り合って住んでいた古い屋敷が、もうみんなで他人に売り渡されてしまい、明け渡し期限は今年一杯だけで、是非とも来年の元旦にならないうちに私たちはこのなじみ深い古家に別れ、また住み馴れた故郷の地を離れ、家を引き払って、私が暮しを立てている土地へ引っ越してしまわなければならなかった。

次の日の朝、私は自分の屋敷の門口に来た。 屋根瓦の合せ目には多くの枯草の断茎が風に吹きさらされながら生えて、さながらにこの古家が持主を代えなければならない原因を説き明し顔であった。 あちらこちらの部屋にいた親戚たちでは多分もう引っ越しがすんでしまったらしく、大へんひっそりとしていた。 私は自分の住まいの部屋へ近づいたが、母は早くも私を待ち受けて出て来た。 それにつづいて飛び出して来たのは八つになるおい宏児ホンルであった。

母は大へん機嫌きげんがよかったが、それでも浮かぬげな気色けしきはありありと見えた。 私に腰を下ろさせ、休ませ、お茶をくれて、しばらく家を片づける事の話もしなかった。 宏児はまだ私を見たことがなかったものだから、そばへはよりつかずにまじまじと私の顔を見つめているのであった。

さて、私たちはとうとう家を片づける話をはじめる段になった。 私はもう住居は借りて置いてある、それからいくらかの家具は買ってあるが、そのほかは家にある木の道具類を売ってしまって、その金で買い足すといいと言った。 母もそれがいいと言った。 そして荷作りは大体すんでいるが、木の道具類で持ち運びに不便なものは、大方売ってしまった、だがまだお金をもらわないと言って、

「お前一二日体を休めたら、近しい親戚たちを一度お訪ねして来てね、その上で引き揚げることにしようよ」と母が言った。

「はい」

「それから閏土ルントウだがね。 あれはうちへ来る度ごとに、いつもお前のことを聞くよ。 大へんお前に会いたがってね。 私はお前が帰って来る日取は知らせて置いてやっているからあれも今にすぐ来るだろうよ」

この時、私の頭にはふと一幅いっぷくの神異的な書面が思い浮んで来たものである。 紺青こんじょう色の空に一輪の金色こんじきまるい月が出てその下は海岸の沙地すなちで、一面に見渡すかぎり清々とした西瓜すいかが植っている。 その中にひとり十一二の少年が、うなじには銀の頸飾くびかざりをかけて、手に一本の刺又さすまたをかまえて一ぴき※(「けものへん+(木/旦)」、第4水準2-80-42)チャー(西瓜を食いに来るという獣、空想上の獣で、※(「けものへん+(木/旦)」、第4水準2-80-42)の字は作者の造字)を目がけて精一杯で刺そうとしているのだが、※(「けものへん+(木/旦)」、第4水準2-80-42)は身をひるがえして彼のまたの下からくぐり抜けて逃げてしまったのであった。

この少年というのが、閏土ルントウであったが、私が始めて彼を知った頃にはまだ十かそこらであった。 今からもう三十年もっているであろう。 この頃は私の父親もまだ在世で、家も豊かにやっていて、私もまァ坊ちゃんであった。

序章-章なし
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故郷 - 情報

故郷

こきょう

文字数 9,713文字

著者リスト:
著者魯迅
翻訳者佐藤 春夫

底本 故郷・孤独者

青空情報


底本:「故郷・孤独者」新学社文庫、新学社教友館
   1973(昭和48)年5月1日発行
   1976(昭和51)年6月1日重版
初出:「中央公論」
   1932(昭和7)年1月1日発行
※「…」と「……」と「…………」の混在は、底本通りです。
※編集部による傍注は省略しました。
入力:大久保ゆう
校正:佐藤すだれ
2021年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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