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悪魔の紋章

著者:江戸川乱歩

あくまのもんしょう - えどがわ らんぽ

文字数:149,883 底本発行年:1938
著者リスト:
著者江戸川 乱歩
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劈頭へきとうの犠牲者

法医学界の一権威宗像隆一郎むなかたりゅういちろう博士が、丸の内のビルディングに宗像研究室をもうけ、犯罪事件の研究と探偵の事業を始めてからもう数年になる。

同研究室は、普通の民間探偵とは違い、其筋そのすじでも手古摺てこずるほどの難事件でなければ、決して手を染めようとはしなかった。 所謂いわゆる「迷宮入り」の事件こそ、同研究室の最も歓迎する研究題目であった。 宗像博士は、研究室開設第一年にして、すでに二つの難事件を見事に解決し、一躍その名声を高め、爾来じらいごとに著名の難事件を処理して、現在では、名探偵と云えば、明智小五郎あけちこごろうか宗像隆一郎かというほどに、世に知られていた。

天才明智は、その生活ぶりが飄々ひょうひょうとしていて、何となくとらえどころがなく、気に入った事件があれば、支那へでも、印度インドへでも、気軽に飛び出して行って、事務所を留守にすることも多いのに反して、宗像博士の方は、明智のような天才的なところはなかったけれど、あくまで堅実で、科学的で、東京を中心とする事件に限って手がけるという、実際的なやり方であったから、期せずして市民の信頼を博し、警視庁でも、難事件が起ると、一応は必ず宗像研究室の意見をちょうするという程になっていた。

事務所なども、明智の方は住宅兼用の書生しょせい流儀であったのに反して、宗像博士は、家庭生活と仕事とをハッキリ区別して、郊外の住宅から毎日研究室へ通い、博士夫人などは一度も研究室へ顔出しをしたことがなく、又研究室の二人の若い助手は、一度も博士の自宅を訪ねたことがないという、厳格きわまるやり口であった。

丸の内の一かく赤煉瓦あかれんが貸事務所街のとある入口に、宗像研究室の真鍮しんちゅう看板が光っている。 赤煉瓦建ての一階三室が博士の探偵事務所なのだ。

今、その事務所の石段を、うようにして上って行く、一人の若い背広服の男がある。 二十七八歳であろうか、その辺のサラリー・マンと別に変ったところも見えぬが、ただ異様なのは、トントンと駆け上るべき石段を、まるで爬虫類はちゅうるいででもあるように、ヨタヨタと這い上っていることである。 急病でも起したのであろうか、顔色がんしょくは土のように青ざめ、額から鼻の頭にかけて、脂汗あぶらあせが玉をなして吹き出している。

彼はハッハッと、さも苦しげな息を吐きながら、やっと石段を昇り、開いたままのドアを通って、階下の一室に辿たどりつくと、入口のガラス張りのドアに、身体からだをぶッつけるようにして、室内に転がり込んだ。

そこは、宗像博士の依頼者接見室で、三方の壁の書棚には博士の博識を物語るかのごとく、内外の書籍がギッシリと詰まっている。 しつの中央には畳一畳敷程の大きな彫刻つきのデスクが置かれ、それを囲んで、やはり古風な彫刻のある肘掛椅子ひじかけいすや長椅子が並んでいる。

「先生、先生はどこです。 アア、苦しい。 早く、先生……」

若い男は床の上に倒れたまま、あえぎ喘ぎ、精一杯の声をふりしぼって叫んだ。

すると、ただならぬ物音と叫び声に驚いたのであろう、隣の実験室へ通じるドアが開いて、一人の男が顔を出した。 これも三十歳程に見える若い事務員風の洋服男である。

「オヤッ、木島きじま君じゃないか。 どうしたんだ、その顔色は?」

彼はいきなり室内に駈け込んで、若者を抱き起した。

「アア、小池こいけ君か。 せ、先生は? ……早く会いたい。 ……重大事件だ。 ……ひ、人が殺される。 ……今夜だ。 今夜殺人が行われる。 アア、恐ろしい。 ……せ、先生に……」

「ナニ、殺人事件だって? 今夜だって? 君はどうしてそれが分ったのだ。 一体、誰が殺されるんだ」

小池と呼ばれた若者は、顔色を変えて木島の気違いめいた目を見つめた。

川手かわての娘だ。 ……その次は親爺おやじの番だ。 みんな、みんなやられるんだ。 ……せ、先生は? 早く先生にこれを。 ……この中にすっかり書いてある。

劈頭へきとうの犠牲者

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悪魔の紋章 - 情報

悪魔の紋章

あくまのもんしょう

文字数 149,883文字

著者リスト:

底本 江戸川乱歩全集 第12巻 悪魔の紋章

親本 江戸川乱歩選集 第二巻

青空情報


底本:「江戸川乱歩全集 第12巻 悪魔の紋章」光文社文庫、光文社
   2003(平成15)年12月20日初版1刷発行
底本の親本:「江戸川乱歩選集 第二巻」新潮社
   1938(昭和13)年10月
底本の親本:「日の出」新潮社
   1937(昭和12)年10月〜1938(昭和13)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:北川松生
2017年1月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:悪魔の紋章

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