日記帳
著者:江戸川乱歩
にっきちょう - えどがわ らんぽ
文字数:6,822 底本発行年:1932
ちょうど初七日の夜のことでした。 私は死んだ弟の書斎に入って、何かと彼の書き残したものなどを取出しては、ひとり物思いにふけっていました。
まだ、さして夜もふけていないのに、家中は涙にしめって、しんと
この日記帳を見るにつけても、私は、恐らく恋も知らないでこの世を去った、はたちの弟をあわれに思わないではいられません。
内気者で、友達も少かった弟は、自然書斎に引こもっている時間が多いのでした。
細いペンでこくめいに書かれた日記帳からだけでも、そうした彼の性質は十分うかがうことが出来ます。
そこには、人生に対する疑いだとか、信仰に関する
私は自分自身の過去の姿を眺めるような心持で、一枚一枚とペイジをはぐって行きました。 それらのペイジには到るところに、そこに書かれた文章の奥から、あの弟の鳩のような臆病らしい目が、じっと私の方を見つめているのです。
そうして、三月九日のところまで読んで行った時に、感慨に沈んでいた私が、思わず軽い叫声を発した程も、私の目をひいたものがありました。
それは、純潔なその日記の文章の中に、始めてポッツリと、はなやかな女の名前が現われたのです。
そして「発信欄」と印刷した場所に「
それでは弟は雪枝さんを恋していたのかも知れない。
私はふとそんな気がしました。
そこで私は、一種の淡い戦慄を
数えて見れば、彼の方からは八回、雪枝さんの方からは十回の文通があったに過ぎず、しかも彼のにも雪枝さんのにも、ことごとく「葉書」と記してあるのを見ると、それには
私は安心とも失望ともつかぬ感じで、日記帳をとじました。 そして、弟はやっぱり恋を知らずに死んだのかと、さびしい気持になったことでした。
やがて、ふと目を上げて、机の上を見た私は、そこに、弟の遺愛の小型の手文庫のおかれているのに気づきました。
彼が生前、一番大切な品々を納めておいたらしい、その高まき絵の古風な手文庫の中には、あるいはこの私のさびしい心持をいやして
すると、その中には、このお話に関係のない様々の書類などが入れられてありましたが、その一番底の方から、ああ、やっぱりそうだったのか。 如何にも大事そうに白紙に包んだ、十一枚の絵葉書が、雪枝さんからの絵葉書が出て来たのです。 恋人から送られたものでなくて、たれがこんなに大事そうに手文庫の底へひめてなぞ置きましょう。
私は、にわかに胸騒ぎを覚ながら、その十一枚の絵葉書を、次から次へと調べて行きました。 ある感動の為に葉書を持った私の手は、不自然にふるえてさえいました。
だが、どうしたことでしょう。 それ等の葉書には、どの文面からも、あるいはまたその文面のどの行間からさえも、恋文らしい感じはいささかも発見することが出来ないのです。
それでは、弟は、彼の臆病な気質から、心の中を打開けることさえようしないで、ただ恋しい人から送られた、何の意味もないこの数通の絵葉書を、お守りかなんぞの様に大切に保存して、可哀相にそれをせめてもの心やりにしていたのでしょうか。 そして、とうとう、報いられぬ思いを抱いたままこの世を去ってしまったのでしょうか。
私は雪枝さんからの絵葉書を前にして、それからそれへと、様々の思いにふけるのでした。 しかし、これはどういう訳なのでしょう。 やがて私は、その事に気づきました。 弟の日記には雪枝さんからの受信は十回きりしか記されていないのに(それはさっき数えて見て覚ていました)今ここには十一通の絵葉書があるではありませんか。
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日記帳 - 情報
青空情報
底本:「江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者」光文社文庫、光文社
2004(平成16)年7月20日初版1刷発行
2012(平成24)年8月15日7刷発行
底本の親本:「江戸川乱歩全集 第九巻」平凡社
1932(昭和7)年3月
初出:「写真報知」報知新聞社
1925(大正14)年3月5日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「ペイジ」と「ページ」の混在は、底本通りです。
※初出時の表題は「恋二題(その一)」です。
入力:門田裕志
校正:Juki
2016年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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