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細雪 01 上巻

著者:谷崎潤一郎

ささめゆき - たにざき じゅんいちろう

文字数:150,684 底本発行年:1955
著者リスト:
著者谷崎 潤一郎
底本: 細雪(上)
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「こいさん、頼むわ。 ―――」

鏡の中で、廊下からうしろへ這入はいって来た妙子たえこを見ると、自分でえりを塗りかけていた刷毛はけを渡して、其方そちらは見ずに、眼の前に映っている長襦袢ながじゅばん姿の、抜き衣紋えもんの顔を他人の顔のように見据みすえながら、

「雪子ちゃん下で何してる」

と、幸子さちこはきいた。

「悦ちゃんのピアノ見たげてるらしい」

―――なるほど、階下で練習曲の音がしているのは、雪子が先に身支度をしてしまったところで悦子につかまって、稽古けいこを見てやっているのであろう。 悦子は母が外出する時でも雪子さえ家にいてくれれば大人しく留守番をする児であるのに、今日は母と雪子と妙子と、三人がそろって出かけると云うので少し機嫌きげんが悪いのであるが、二時に始まる演奏会が済みさえしたら雪子だけ一と足先に、夕飯までには帰って来て上げると云うことでどうやら納得はしているのであった。

「なあ、こいさん、雪子ちゃんの話、又一つあるねんで」

「そう、―――」

姉の襟頸えりくびから両肩へかけて、妙子はあざやかな刷毛目はけめをつけてお白粉しろいを引いていた。 決して猫背ねこぜではないのであるが、肉づきがよいのでうずたかく盛り上っている幸子の肩から背の、れたはだの表面へ秋晴れの明りがさしている色つやは、三十を過ぎた人のようでもなく張りきって見える。

「井谷さんが持って来やはった話やねんけどな、―――」

「そう、―――」

「サラリーマンやねん、MB化学工業会社の社員やて。 ―――」

「なんぼぐらいもろてるのん」

「月給が百七八十円、ボーナス入れて二百五十円ぐらいになるねん」

「MB化学工業云うたら、仏蘭西フランス系の会社やねんなあ」

「そうやわ。 ―――よう知ってるなあ、こいさん」

「知ってるわ、そんなこと」

一番年下の妙子は、二人の姉のどちらよりもそう云うことには明るかった。 そして案外世間を知らない姉達を、そう云う点ではいくらか甘く見てもいて、まるで自分が年嵩としかさのような口のきき方をするのである。

「そんな会社の名、あたしは聞いたことあれへなんだ。 ―――本店は巴里パリにあって、大資本の会社やねんてなあ」

「日本にかて、神戸の海岸通に大きなビルディングあるやないか」

「そうやて。 そこに勤めてはるねんて」

「その人、仏蘭西語出来はるのん」

「ふん、大阪外語の仏語科出て、巴里にもちょっとぐらいてはったことあるねん。 会社の外に夜学校の仏蘭西語の教師してはって、その月給が百円ぐらいあって、両方で三百五十円はあるのやて」

「財産は」

「財産云うては別にないねん。 田舎に母親が一人あって、その人が住んではる昔の家屋敷と、自分が住んではる六甲の家と土地とがあるだけ。 ―――六甲のんは年賦で買うた小さな文化住宅やそうな。 まあ知れたもんやわ」

「そんでも家賃助かるよってに、四百円以上の暮し出来るわな」

「どうやろか、雪子ちゃんに。

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細雪 - 情報

細雪 01 上巻

ささめゆき 01 じょうかん

文字数 150,684文字

著者リスト:

底本 細雪(上)

親本 谷崎潤一郎全集 第十五卷

青空情報


底本:「細雪(上)」新潮文庫、新潮社
   1955(昭和30)年10月30日発行
   2011(平成23)年3月20日112刷改版
   2013(平成25)年6月25日114刷
底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第十五卷」中央公論社
   1968(昭和43)年1月25日発行
初出:一〜八「中央公論 第五十八巻第一号」
   1943(昭和18)年3月1日発行
   九〜十三「中央公論 第五十八巻第三号」
   1943(昭和18)年1月1日発行
※表題は底本では、「細雪(ささめゆき) 上巻」となっています。
※誤植を疑った箇所に、底本の親本の表記が入力者により併記されています。また、「谷崎潤一郎全集 第十九巻」(中央公論新社2015年6月10日初版発行)は562頁より私家版手入れ本の著者による修正も参照して校合したとありますので、「谷崎潤一郎全集 第十九巻」(中央公論新社2015年6月10日初版発行)の表記も入力者により併記されています。
※底本巻末の編者による注解は省略しました。
入力:砂場清隆
校正:小島大樹
2016年6月18日作成
2018年5月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:細雪

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