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罪と罰

著者:フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキー

つみとばつ

文字数:653,272 底本発行年:1954
底本: 罪と罰 下
底本2: 罪と罰 上
親本: 罪と罰 下
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第一篇

七月の初め、方図もなく暑い時分の夕方近く、一人の青年が、借家人からまた借りしているS横町の小部屋から通りへ出て、なんとなく思い切り悪そうにのろのろと、K橋の方へ足を向けた。

青年はうまく階段でおかみと出くわさないで済んだ。 彼の小部屋は、高い五階建の屋根裏にあって、住まいというよりむしろ戸棚に近かった。 女中と賄いつきで彼にこの部屋を貸していた下宿のおかみは、一階下の別のアパートに住んでいたので、通りへ出ようと思うと、たいていいつも階段に向かっていっぱいあけっ放しになっているおかみの台所わきを、いやでも通らなければならなかった。 そしてそのつど、青年はそばを通り過ぎながら、一種病的な臆病おくびょうな気持を感じた。 彼は自分でもその気持を恥じて、顔をしかめるのであった。 下宿の借金がかさんでいたので、おかみと顔を合わすのがこわかったのである。

もっとも、彼はそれほど臆病で、いじけ切っていたわけでなく、むしろその反対なくらいだった。 が、いつのころからか、ヒポコンデリイに類したいら立たしい、張りつめた気分になっていた。 すっかり自分というものの中に閉じこもり、すべての人から遠ざかっていたので、下宿のおかみのみならず、いっさい人に会うのを恐れていたのである。 彼は貧乏におしひしがれていた。 けれども、この逼迫ひっぱくした状態すらも、このごろ彼はあまり苦にしなくなった。 その日その日の当面の仕事も全然放擲ほうてきしてしまい、そんな事にかかずらう気にもならなかったのである。 彼は正直なところ、どこのどのようなおかみがいかなる事を企てようと、けっして恐れなどしなかった。 けれど、階段の上に立ち止まらされて、なんの役にも立たない平凡なごみごみした話や、うるさい払いの督促や、おどかしや、泣き言などを聞かされた上、自分の方でもごまかしたり、あやまったり、嘘をついたりするよりは――猫のように階段をすべりおりて、誰にも見られないように、ちょろりと姿をくらます方がまだしもなのであった。

とはいえ、今度は通りへ出てしまうと、借りのある女に会うのをかくまで恐れているということが、われながらぎょっとするほど彼を驚かした。

『あれだけの事を断行しようと思っているのに、こんなくだらない事でびくつくなんて!』奇妙な微笑を浮かべながら、彼はこう考えた。 『ふむ……そうだ……いっさいの事は人間の掌中にあるんだが、ただただ臆病のために万事鼻っ先を素通りさせてしまうんだ……これはもう確かに原理だ……ところで、いったい人間は何を最も恐れてるだろう? 新しい一歩、新しい自分自身のことば、これを何よりも恐れているんだ……だが、おれはあんまりしゃべりすぎる。 つまりしゃべりすぎるから、なんにもしないのだ。 もっとも、なんにもしないからしゃべるのかもしれない。 これはおれが先月ひと月、夜も昼もあの隅っこにごろごろしていて……昔話みたいな事を考えてるうちに、しゃべることを覚えたのだ。 それはそうと、なんだっておれは今ほっつき歩いてるんだろう、いったいあれが俺にできるのだろうか? そもそも、あれがまじめな話だろうか? なんの、まじめな話どころか、ただ空想のための空想で、自慰にすぎないのだ。 玩具おもちゃだ! そう、玩具というのが本当らしいな!』

通りは恐ろしい暑さだった。 その上、息苦しさ、雑踏、いたるところに行き当たる石灰、建築の足場、煉瓦れんがほこり、別荘を借りる力のないペテルブルグ人の誰でもが知り抜いている特殊な夏の悪臭――これらすべてが一つになって、それでなくてさえ衰え切っている青年の神経を、いよいよ不愉快にゆすぶるのであった。 市内のこの界隈かいわいに特におびただしい酒場の堪えがたい臭気、祭日でもないのにひっきりなしにぶっつかる酔いどれなどが、こうした情景のいとわしい憂鬱ゆううつな色彩をいやが上に深めているのであった。 深い嫌悪の情が、青年のきゃしゃな顔面をちらとかすめた。 ついでに言っておくが、彼は美しい黒い目に栗色の毛をしたすばらしい美男子で、背は中背より高く、ほっそりとして格好がよかった。 けれど、彼はすぐに深い瞑想めいそう、というよりむしろ一種の自己忘却にちたようなあんばいで、もう周囲のものに気もつかず、また気をつけようともせず先へ先へと歩き出した。 どうかすると、今しがた自分で自認した独語の癖が出て、何かしら口の中でぶつぶつ言う。 この瞬間、彼は考えが時おりこぐらかって、体が極度に衰弱しているのを自分でも意識した――ほとんどもう二日というもの、全くものを食わなかったのである。

彼はなんともいえない見すぼらしいなりをしていて、ほかの者なら、かなり慣れっこになった人間でも、こんなぼろを着て昼日なか通りへ出るのは、気がさすに相違ないほどである。 しかしこの界隈ときたら、服装みなりなどで人をびっくりさせるのは、ちょっとむずかしいところだった。 乾草広場センナヤに近く接している位置の関係、おびただしい木賃宿や長屋の数々、それからとりわけ、ここら中部ペテルブルグの町や横町にごみごみ集まっている職工や労働者などの群れ――こういうものが時々その辺一帯の街上風景に思い切ってひどい風体の人物を織り込むので、変わった姿に出会って驚くのは、かえって変なくらいのものだった。 その上青年の心の中には、毒々しい侮蔑ぶべつの念が激しく鬱積うっせきしていたので、若々しい――時としてはあまりに若々しい神経質なところがあるにもかかわらず、彼は町中でそのぼろ洋服を恥じようなどとは、てんで考えもしなかった。 もっとも、ある種の知人とか、一般に会うのを好まない昔の友人とか、そんなものに出会わすのはおのずから別問題である……とはいえ、たくましい運送馬に引かれた大きな荷馬車に乗った酔漢が、今ごろこの町中をどうして、どこへ運ばれて行くのかわからないが、通りすがりに「やあい、このドイツしゃっぽ!」といきなりどなって、手で彼を指さしながら、のどいっぱいにわめき出したとき――青年はふいに立ち止まり、痙攣けいれんしたような手つきで自分の帽子を抑えた。 それは山の高い、チンメルマン製の丸形帽子だったが、もうくたびれ切ってすっかりにんじん色になり、穴だらけしみだらけで、つばは取れてしまい、その上つぶれた一方の角が、見苦しくも横の方へ突き出ている。 しかし、彼を捕えたのは羞恥しゅうちの情ではなく、全く別な、むしろ驚愕きょうがくに似た気持だった。

第一篇

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罪と罰 - 情報

罪と罰

つみとばつ

文字数 653,272文字

底本 罪と罰 下

親本 罪と罰 下

青空情報


底本:「罪と罰 上」角川文庫、角川書店
   1954(昭和29)年9月30日初版発行
   2008(平成20)年11月25日改版初版発行
   「罪と罰 下」角川文庫、角川書店
   1954(昭和29)年10月10日初版発行
   2008(平成20)年11月25日改版初版発行
底本の親本:「罪と罰 上」角川文庫、角川書店
   1954(昭和29)年9月30日初版発行
   1968(昭和43)年5月13日改版初版発行
   「罪と罰 下」角川文庫、角川書店
   1954(昭和29)年10月10日初版発行
   1968(昭和43)年5月23日改版初版発行
初出:「ドストイエフスキイ全集 第五巻」三笠書房
   1935(昭和10)年1月20日発行
※「五辻(ピャーチウグロフ)」と「五つ辻(ピャーチ・ウグロフ)」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:高柳典子
校正:門田裕志、Juki
2021年10月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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