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上杉謙信

著者:吉川英治

うえすぎけんしん - よしかわ えいじ

文字数:126,819 底本発行年:1989
著者リスト:
著者吉川 英治
底本: 上杉謙信
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けるしるしあり

この正月を迎えて、謙信けんしんは、ことし三十三とはなった。

まだ弱冠じゃっかんといっていい。 それなのに、服色も装身のすべても、ひどく地味好みであった。 長袖の羽織も山繭織やままゆおり鶯茶うぐいすちゃの無地ですましている。 大口に似たはかまだけが何やら特殊な織物らしい。 またいつも好んで頭巾ずきんをかぶり、新春の装い綺羅きらやかな群臣のなかにあって、にこにこと無口に衆を見まわしている。 ――どう見ても臨済りんざいの若僧がひとりそこにざっているようであった。

「どうです、他愛ないものではありませんか。 これですから、わが部下というものは、可愛くてなりません」

座を隣りあわせている右側の人へ、謙信はこう話しかけた。

関東管領かんりょうの上杉憲政のりまさは、

「まったく」

と、うなずいて、更にまた、その右隣にいる貴人へ向って、

越後えちご衆の義勇に富むことや辛抱強さは、つとに、四隣に聞えていますが、かように無邪気で、多芸の士が多いとは、いや初めて知りましたな」

と、微笑びしょうを伝えた。

貴人というのは、この中に、ただひとりの都の公卿くげだった。 熊野どの、熊野どのと仮称かしょうしているが、実は関白家のちゃく近衛前嗣このえさきつぐなのである。 ――ことし永禄えいろく四年という天下大乱の中を、いかに正月とはいえ、こうした荒武者ばかりの席に平然とのぞんでともに酒をみ、ともに歓を尽しているこの公卿も、いわゆる花鳥風月かちょうふうげつだけしか解さない堂上の人とはすこしるいことにしているようである。 またそれには、こういう武人の一ぐんに対して、何らか求める大志を抱いているものということもほぼ想像がつく。

しかもここは、上州厩橋うまやばしの城内である。 京都からいえば、まだ多分に地方的野性のみを想像されやすい坂東平野の一角である。 すくなくも当時の貴顕きけんがこんなところまで旅するには、よほどな覚悟と目的がなければできなかった。

初春はるなれや 明けたり

おもしろの世や 今日けふなれ

生れあはせつるものかな

よくこそ今に。

国々こぞり立ち 国々たゝかふ

よべの夜雲よぐもと 消ゆあり

あけの出づ日と 燃ゆあり

神代を今と。

いまなれや ものゝふ

生きてこそ 人みな

またとはなき 生がひかな

草の根もめ。

正月七日は吉例の賜酒のうたげだ。 国訛くになまりを交ぜてこんな長歌を今様調でうたっていた越軍の若ざむらい達は、ついにこぞって起ちあがり、手拍子あわせながらこの城楼第一の大広間も狭しとばかり、輪をなして踊りめぐり踊り流れ、きょうの生命を、心ゆくまで楽しませていた。

信玄の影

「連年、正月は征途で迎えるのが、このところ吉例となったようです。 去年は越中の陣中でしたが、さて、来年はどこでするやら」

けるしるしあり

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上杉謙信 - 情報

上杉謙信

うえすぎけんしん

文字数 126,819文字

著者リスト:
著者吉川 英治

底本 上杉謙信

青空情報


底本:「上杉謙信」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1989(平成元)年10月11日第1刷発行
   1996(平成8)年12月12日第15刷発行
初出:「週刊朝日」
   1942(昭和17)年1月4日号〜5月24日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:トレンドイースト
2014年3月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:上杉謙信

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