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新・水滸伝

著者:吉川英治

しん・すいこでん - よしかわ えいじ

文字数:675,048 底本発行年:1989
著者リスト:
著者吉川 英治
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序曲、百八の星、人間界にんげんかいに宿命すること

頃は、今から九百年前。 ――中華の黄土大陸は大宋国だいそうこくといって、首都を河南かなん省の開封かいほう東京とうけいにさだめ、宋朝歴代の王業は、四代の仁宗じんそう皇帝につがれていた。

その嘉祐かゆう三年の三月三日のことである。

天子は、紫宸殿ししいでん出御しゅつぎょして、この日、公卿百官の朝賀をよみせられた。 そしてはや、楽府がくふの仙楽と満庭の万歳のうちに式を終って、今しも袞龍こんりょう錦衣きんいのお人影が、侍座じざ玉簪ぎょくさんや、侍従の花冠はなかんむりと共にたま椅子いすをお立ちあらんと見えたときであった。

「あ、陛下。 しばしのほど」

列を離れて出た宰相さいしょう趙哲ちょうてつ、参議の文彦博ぶんげんぱくのふたりが、帝座に伏して奏上した。

「お願いにござりまする。 ――いにしえから、今日の上巳じょうしノ祝節(節句)には、桃花の流れにみそぎして、官民のわかちなく、和楽を共に、大いにたのしみ遊ぶ日とされております。 ねがわくば、このき日にあたって、下々しもじもへも、ご仁政のじつをおしめしたまわらば、宋朝の栄えは、万代だろうとおもわれますが」

仁宗皇帝は、ふと、ふしんなお顔をされた。

「なに。 こんなよい日和ひよりなのに、人民は、何も愉しめずにいるというのか」

「さればで――」と、両名はさらに九拝して。 「ここ数年、五こくのみのりも思わしくありません。 加うるに、この春は、天下に悪疫あくえきが流行し、江南江北も、東西二京も、病臭びょうしゅうに埋まっております。 家々はえにみち、病屍かばねは道に捨てられてかえりみられず、夜は群盗のおののきに明かすという有様でございますから」

「ふうん。 そんなにひどいのか」

「そこで、検非違使けびいし包待制ほうたいせいのごときは、施薬院せやくいん医吏いりをはげまし、また、自分の俸給まで投げだして、必死な救済にあたっておりますが、いかんせん、疫痢えきり猖獗しょうけつにはかてません。 このぶんでは、地上の人間の半分は、死ぬだろうと恐れられておりまする」

「それは、ゆゆしい事ではないか。 さっそく、天下の諸寺院に令して大祈祷だいきとうをさせねばならん」

国土のわずらいでも、一身のらんでも、なにか大事にたちいたると、すぐ、加持祈祷かじきとうへ頼むところは、わがちょうの藤原時代の権門とも、まったく同じ風習だった。 いや、それが文明社会に近づきつつまだ文明にほど遠かった当時の人智だったというしかない。

江西こうせいへの旅は遥かだった。 しかし、旅にはよい仲春ちゅうしゅんの季節でもある。 禁門の大将軍洪信こうしんは、おびただしい部下の車騎しゃきをしたがえて、都門ともん東京とうけいを立ち、日をかさねて、江西信州の県城へ行きついた。

「勅使のおくだりだぞ。 粗略あるな」

と、州の長官以下、大小の諸役人から土軍はもちろん、土地ところの男女僧俗まで、みな道に堵列とれつして、こう大将を出迎えた。

その夜のさかんな饗宴きょうえんはいうまでもなかった。 地方のが中央の大賓たいひんびることは、今も昔もかわりがない。 わけて、丹紙たんし詔書しょうしょを奉じて来た勅使であるから、県をあげて、庁の役人は、そのもてなしに心をくだいた。

が、洪信は、さすが軍人である。 豪放で、らいらくだ。 かつ、朝廷の賜餐しさんには馴れ、街の銀盤ぎんばん玉杯ぎょくはいにも飽いているから、どんな歓待とて、彼の舌や眼を驚かすには足らない。

「まあ、まあ。

序曲、百八の星、人間界にんげんかいに宿命すること

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新・水滸伝 - 情報

新・水滸伝

しん・すいこでん

文字数 675,048文字

著者リスト:
著者吉川 英治

底本 新・水滸伝(一)

青空情報


底本:「新・水滸伝(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1989(平成元)年6月11日第1刷発行
   2013(平成25)年2月1日第41刷発行
「新・水滸伝(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1989(平成元)年6月11日第1刷発行
   2012(平成24)年8月1日第39刷発行
「新・水滸伝(三)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1989(平成元)年7月11日第1刷発行
   2011(平成23)年5月6日第38刷発行
「新・水滸伝(四)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1989(平成元)年7月11日第1刷発行
   2011(平成23)年6月1日第37刷発行
初出:「日本」講談社
   1958(昭和33)年1月号〜1961(昭和36)年12月号
※「おしッこ」と「オシッコ」、「ちぇっ」と「ちぇッ」、「ひぇっ」と「ひぇッ」、「暮らし」と「暮し」、「二挺斧」と「二丁斧」、「灯火」と「燈火」の混在は、底本通りです。
※「玉麒麟」に対するルビの「ぎょっきりん」と「ぎょくきりん」の混在は、底本通りです。
※底本各巻末の註解は省略しました。
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2018年12月24日作成
2019年2月16日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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