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それから

著者:夏目漱石

それから - なつめ そうせき

文字数:172,065 底本発行年:1948
著者リスト:
著者夏目 漱石
底本: それから
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誰かあわただしく門前をけて行く足音がした時、代助だいすけの頭の中には、大きな俎下駄まないたげたくうから、ぶら下っていた。 けれども、その俎下駄は、足音の遠退とおのくに従って、すうと頭から抜け出して消えてしまった。 そうして眼が覚めた。

枕元まくらもとを見ると、八重の椿つばきが一輪畳の上に落ちている。 代助は昨夕ゆうべ床の中でたしかにこの花の落ちる音を聞いた。 彼の耳には、それが護謨毬ゴムまりを天井裏から投げ付けた程に響いた。 夜がけて、四隣あたりが静かな所為せいかとも思ったが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、あばらのはずれに正しくあたる血の音を確かめながらねむりに就いた。

ぼんやりして、少時しばらく、赤ん坊の頭程もある大きな花の色を見詰めていた彼は、急に思い出した様に、ながら胸の上に手を当てて、又心臓の鼓動を検し始めた。 寐ながら胸の脈を聴いてみるのは彼の近来の癖になっている。 動悸どうきは相変らず落ち付いてたしかに打っていた。 彼は胸に手を当てたまま、この鼓動のもとに、温かいくれないの血潮の緩く流れる様を想像してみた。 これが命であると考えた。 自分は今流れる命をてのひらで抑えているんだと考えた。 それから、この掌にこたえる、時計の針に似た響は、自分を死にいざなう警鐘の様なものであると考えた。 この警鐘を聞くことなしに生きていられたなら、――血を盛る袋が、時を盛る袋の用を兼ねなかったなら、如何いかに自分は気楽だろう。 如何に自分は絶対に生を味わい得るだろう。 けれども――代助は覚えずぞっとした。 彼は血潮によって打たるる掛念けねんのない、静かな心臓を想像するに堪えぬ程に、生きたがる男である。 彼は時々寐ながら、左の乳の下に手を置いて、もし、此所ここ鉄槌かなづちで一つどやされたならと思う事がある。 彼は健全に生きていながら、この生きているという大丈夫な事実を、ほとんど奇蹟きせきごと僥倖ぎょうこうとのみ自覚し出す事さえある。

彼は心臓から手を放して、枕元の新聞を取り上げた。 夜具の中から両手を出して、大きく左右に開くと、左側に男が女をっている絵があった。 彼はすぐ外のページへ眼を移した。 其所そこには学校騒動が大きな活字で出ている。 代助は、しばらく、それを読んでいたが、やがて、惓怠だるそうな手から、はたりと新聞を夜具の上に落した。 それから烟草たばこを一本吹かしながら、五寸ばかり布団をり出して、畳の上の椿を取って、引っ繰り返して、鼻の先へ持って来た。 口と口髭くちひげと鼻の大部分が全く隠れた。 けむりは椿のはなびらずいからまって漂う程濃く出た。 それを白い敷布の上に置くと、立ち上がって風呂場へ行った。

其所で叮嚀ていねいに歯を磨いた。 彼は歯並はならびいのを常にうれしく思っている。 肌を脱いで綺麗きれいに胸とを摩擦した。 彼の皮膚にはこまやかな一種の光沢つやがある。 香油を塗り込んだあとを、よくき取った様に、肩をうごかしたり、腕を上げたりする度に、局所の脂肪が薄くみなぎって見える。 かれはそれにも満足である。 次に黒い髪を分けた。 油をけないでも面白い程自由になる。 髭も髪同様に細くかつ初々ういういしく、口の上を品よくおおうている。 代助はそのふっくらした頬を、両手で両三度でながら、鏡の前にわが顔を映していた。

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それから - 情報

それから

それから

文字数 172,065文字

著者リスト:
著者夏目 漱石

底本 それから

青空情報


底本:「それから」新潮文庫、新潮社
   1948(昭和23)年11月30日発行
   2010(平成22)年8月25日136刷改版
   2013(平成25)年2月15日141刷
初出:「東京朝日新聞」、「大阪朝日新聞」
   1909(明治42)年6月27日〜10月4日
入力:富田倫生
校正:松永佳代
2013年6月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:それから

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