• URLをコピーしました!

平の将門

著者:吉川英治

たいらのまさかど - よしかわ えいじ

文字数:229,120 底本発行年:1989
著者リスト:
著者吉川 英治
底本: 平の将門
0
0
0


御子と女奴

原始のすがたから、徐々に、人間のすむ大地へ。

坂東平野ばんどうへいやは、いま、大きく、移りかけていた。

――ために、太古からの自然も、ようやく、あちこち、きずだらけになり、まぬがれぬ脱皮を、苦悶するように、この大平原を遠くめぐる、富士も浅間も那須なすたけも、硫黄色の煙を常に噴いていた。

たとえば、ここにある一個の人間の子、相馬そうま小次郎こじろうなども、そうした“地の顔”と“天の気”とを一塊の肉に宿して生れ出たようなわっぱだった。

年は、ことし十四ぐらい。

かた肥りの、猪肉ししむらで、野葡萄のような瞳をもち、頬はてかてか赤く、髪はいつも、玉蜀黍とうもろこしの毛みたいに、結び放しときまっていた。 全身、どこともなく、陽なた臭いような、土臭いような、一種の精気を分泌している。

だが、今年になってから、その童臭も、黒い瞳も、どこか、ぼやっと、溌剌を欠いていた。 痴呆性ちほうせいにすらそれが見えるほど、ぼやけていた。

父の死後。 家に飼っている女奴めのやっこ奴婢ぬひ蝦夷萩えぞはぎと、急に親しくなって、先頃も、昼間、さく馬糧倉まぐさぐらの中へ、ふたりきりで隠れこんでいたのを、意地のわるい叔父の郎党に見つけられ、

御子みこが、蝦夷えびすの娘と、馬糧倉の中で、昼間から、歌垣うたがきのように、くわりしておられた。 ――相手もあろうによ、女奴と」

と、一大事のように、吹聴された事件があった。 どうしてか、後見の叔父たちは、小次郎には、何もいわなかったが、女奴の蝦夷萩は、きびしい仕置にあい、大勢のまえで、むちで三十も四十も打ちすえられた。

それきり、女奴の蝦夷萩は、小次郎のまえに、一度も、姿を見せなくなった。 小次郎もまた、以後はよけいに、家に在る大叔父やい叔父に対して、気うとい風を示して近づかなかったし、大勢の家人けにんや奴婢たちにも、なんとなく、顔を見られるような卑屈を抱いているのだろう。 この頃は、ほとんど、屋敷の曲輪くるわうちには、いなかった。 ひまさえあれば、その住居から一里半も離れている――この“大結おおゆうまき”へ来て、馬と遊んでいるか、さもなければ、丘の一つの上に坐りこんで、ぼやっと、行く雲を、見ているのだった。

ここの牧は、坂東平野のうちでも、最も大きな、広い牧場だと、いってよい。

わが家には、こんな牧が、所領の内に、四ヵ所もある。

馬は、土地につぐ財産だ。 都へいて行けば、争って人は求めたがるし、地方でも、良馬は、いつでも砂金かねとひき換えができる。

その馬が、わが家には、こんなにもいるのだ。

下総しもうさ上総かずさ常陸ひたち下野しもつけ武蔵むさし――と見わたしても、これほどな馬数と、また、豊かな墾田と、さらに、まだまだ無限な開拓をまつ広大な処女地とを、領有している豪族といっては、そうたくさんは、あるものじゃない。

「――いいか、おまえは、その跡目をつぐ、総領息子であるのだぞ」

と、死んだ父の良持よしもちが、生前、よくいっていたことばを、相馬の小次郎は、ここへ来ると思い出した。 牧の丘に、坐りこんで、ぽかんと、父の声の、あの日この日を思い出しているのが、なにかしら、楽しみでもあったのだ。

そんな時。 ――行く雲を見るともなく見ている眼から、急に、ぽろぽろと、涙をはしらせ、鼻みずを垂らし、しまいには、顔をくしゃくしゃにして、独り、声をあげて、泣き出してしまうことがあった。

ここでは、いくら泣いていても、なだめてもなし、怪訝いぶかる者もいなかった。 彼は、自然に泣きおさまるまで、自分を泣かせて、やがて、嗚咽おえつが止まると、忘れたように、けろりと、太陽に顔をかわかしている。

「御子……。 御子うっ」

たれか、遠くで、彼をよんだ。

馬舎働きの男が、丘の下から、手招ぎしていた。 飯時を告げるのであった。 小次郎は、首を振って見せた。

「おらあ、食わねえよ。

御子と女奴

━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

平の将門 - 情報

平の将門

たいらのまさかど

文字数 229,120文字

著者リスト:
著者吉川 英治

底本 平の将門

青空情報


底本:「平の将門」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1989(平成元)年5月15日第1刷発行
   1989(平成元)年7月20日第3刷発行
初出:「小説公園」六興出版社
   1950(昭和25)年新春号〜1952(昭和27)年2月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:トレンドイースト
2014年4月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:平の将門

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!