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大岡越前

著者:吉川英治

おおおかえちぜん - よしかわ えいじ

文字数:215,630 底本発行年:1989
著者リスト:
著者吉川 英治
底本: 大岡越前
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第一章

三人男

「犬がうらやましい。 ああ、なぜ人間なぞに生れたろう」

冗戯じょうだんにも、人間仲間で、こんなことばを聞くことが近年では、めずらしくもなくなった。

笑えるうちは、まだよかったが、この頃ではそんな冗戯じょうだんが出ても、笑う者もなくなった。

「何しろ、たいな世の中になったものです。 お犬様には、分るでしょうが、人間どもには何が何だか、わけが分りませんな」

これは、庶民とよぶ人間の群の、一致していうことばだったが、人々のあたまの中は、言葉どおりに、一致してはいなかった。 こういう時代の特徴として、各※(二の字点、1-2-22)の思想も、人生観も、三人よれば、三人。 十人よれば、十人十色といろにちがっていた。 世にたいする考えも、自分というものの生かし方も、皆、まちまちで、ばらばらで、しかも表面だけは妙に、浮わついた風俗と華奢かしゃを競い、人間すべてが満足しきッてでもいるようなあやしい享楽色と放縦ほうじゅうな社会をつくり出していた。

夏の夜である。 ――元禄げんろく十四年の盆すぎ。

蛍狩ほたるがりでもあるまいに、淀橋上水堀の道もないあたりを、狐にでもかされたような三人男が歩いていた。

「おいおい、大亀おおがめ 待てやい。 待ってやれよ」

「どうしたい。 阿能十あのじゅう

味噌久みそきゅうのやつが、へ落ちてしまやがった。 まっ暗で、引っ張り上げてやろうにも、見当がつかねえ」

「よくドジばかりふむ男だ。 味噌久はかまわねえが、背負わせておいた御馳走は、まさか田ン圃へいてしまやアしめえな」

べつな声が、闇の中で、

「ええ、ひでえことをいう。 ふたりとも身軽なくせに。 すこし荷物を代ってくれやい」

と、田のくろを、這い上がっているようだった。

大亀と阿能十は、おかしさやら、暗さやら、わけもなく笑いあって、

「まあ、そういうなよ。 目ざす中野はもうすぐだ。 辛抱しろ、辛抱しろ」

「だが、着物の裾をしぼらねえことにゃあ、どうにも、すねにベタついてあるけもしねえ」

「阿能。 泣きベソがまた泣いていら。 そこらで一ぷくやるとするか」

小高い雑木林の丘に、男たちは腰をおろした。

三人とも、二十歳はたちから三十前。 ふたりは、浪人風であり、ひとりは町人。

第一章

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大岡越前 - 情報

大岡越前

おおおかえちぜん

文字数 215,630文字

著者リスト:
著者吉川 英治

底本 大岡越前

青空情報


底本:「大岡越前」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1989(平成元)年8月11日第1刷発行
   1991(平成3)年2月1日第3刷発行
初出:「日光」
   1948(昭和23)年9月〜1949(昭和24)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「2011(平成23)年5月6日第22刷」の底本では「――あっしも、足元の明るいうちに、」は「――あっしも 足元の明るいうちに、」となっています。
入力:川山隆
校正:トレンドイースト
2013年11月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:大岡越前

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