詩とはなにか
著者:山之口貘
しとはなにか - やまのくち ばく
文字数:5,342 底本発行年:1976
詩を書き出してから、すでに四十年に近いのであるが、さてしかし、詩とはなにかと来られると四十年の年月もぐらつくみたいで先ず、当惑をもって答えるしかないのである。 ではなんのために詩を書くのかと来られてはこれもまた直立不動の姿勢にでもなって、ただ口をもぐもぐしているよりほかはないみたいなのである。
詩人のくせに、はなはだみっともないようであるが、実は詩人だからこそそうなのであって、詩とはなにかと問われても、ちょっと一口では答えられないものがあるからであり、なんのために詩を書くのかと問われても、それらの答えは、灰皿やマッチみたいに、すぐに出せるものではないからなのである。 つまりは、詩とはなにかといわれても、詩の定義はむずかしくて、四十年の詩作をもってしても答えることが困難なのである。
たとえばある詩人によると、詩は叫びであるというのである。 そうかとおもうとある詩人は、詩は怒りであるというのである。 また詩は美であるというのもある。 あるいは、散文であっても小説であっても、あの特定の審美的情緒を感じさせるものがあれば、それを詩といってもよいという風なのもある。 また、詩は批評であるとするものもある。
またある詩人は、精神のある状態の記録であると説明する。 そしてまたある詩人は、詩は経験であるというのである。 またある詩人にとって、詩は美や真実をもとめる人間感情の純粋な表現であるという。 ある詩人は、詩は青春であるともいうのである。 数えあげると、おそらく詩人の数ほどいろいろあるに違いないのである。
そんなわけで、詩とはなにかと問われても、誰もが詩とはこれだと答えられるような定義というものがあるのではないからなのである。 ということは、それほど詩の定義づけはむずかしいということなのであって、詩人の間ではむかしから、詩とはなにかが問題にされつづけて来たのであるが、その答えは前に述べたいろいろの例のように、各人各様に試みられているに過ぎないのである。
そこで、話はぼくのばあいなのである。 四十年近くも詩を書いて来たとはいうものの、正直なところ、詩とはなにかと問われると、問われるたんびに戸惑いしないではいられないのである。 しかし、それでも詩を書いて、詩人のつもりで生きて来たのだとおもうと、そこに詩を投げ出して逃げ出したくもなるのであるが、なにしろ何十年も歩いて来た道なのである。 引返すことはすでに不可能なことであり、いまとなっては飛び込む横丁もない始末なのである。
そういうぼくにとって、出来ることはただ一つ、詩を読んでもらいたいと、答えの代りにおすすめするより外にはないのである。
いかにも、ずるいみたいであるが、やむを得ないわけで、詩とはそういう風にして自分の手でさわり、自分の眼で見てわかるものなのであって、問いに対する答えを待っていたのでは、何年経っても実感としてはわからないのではなかろうか。
ぼくが詩を書くようになったのは、詩とはなにかということ、それがわかっての上で書いたのではなかった。 わかっていたにしてもそれは、小説よりもうんと短いもの、そして、一行一行が行わけにして書かれたもの、それが詩であるぐらいの程度なのであったが、その程度のことも、当時の生田春月の詩から得たところの実感なのであった。 詩を象にたとえて見るならば、詩人は群盲なのかも知れない。
それでも手にふれてはじめて知ったそれが、行わけの短い形であったということはいわば詩のしっぽか足の皮であったかもしれないが、それを手がかりにぼくは詩の世界に足をふみこんだのである。 つまりは、詩とはなにかもしらないうちに、書きたくなって書くようになったのが詩なのであった。
いわば、書かずにはいられなくなって書き出したのがぼくの詩で、かゆいところを掻き出したのが病みつきになったみたいなものなのである。 それはぼくに、美感というよりは快感をあたえたのである。 よくはまだぼく自身にもわからないのであるが、ぼくはいまでも、あるいはこの快感のために、詩作をしているのかも知れないのである。 ぼくは常々、詩を求めるこころは、バランスを求めるこころであるとおもっているが、そのこころは、かゆければ掻きたくなり、いたければさすりたくなるこころのようなものだからである。
こうして、詩人としてのぼくはいかにも自然発生的で、詩とはなにかも知らなければ、なんのために詩を書くのかも知らない詩人なのではあるが、それでは詩を書く資格がないじゃないかといわれたりする、資格で詩を書く詩人もあるようである。
さて、詩人としてのぼくの仕合わせは、たとえ詩を書く資格がないにしても、詩を書かずにはいられないというそのことなのである。 ということは、バランスを求めるこころが、ぼくにそうさせるのではなかろうかとおもうのである。 ぼくの経験によると、人間は生きていると、あっちもこっちもかゆいのである。 生活を見てもそうなのであって、かゆかったり痛かったり、痛がゆかったりで、なんとかしなくてはならないことばかりである。
ぼくはかつて次のような「座蒲団」という詩を書いたことがある。
土の上には床がある
床の上には畳がある