• URLをコピーしました!

ベートーヴェンの生涯 03 ハイリゲンシュタットの遺書

著者:ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン Ludwig van Beethoven、ロマン・ロラン Romain Rolland

ベートーヴェンのしょうがい

文字数:3,943 底本発行年:1938
0
0
0


序章-章なし

[#ページの左右中央]

ハイリゲンシュタットの遺書

わが弟カルルおよび(ヨーハン**)に。 ――わが死後、この意志の遂行さるべきために。

[#改丁]

おお、お前たち、――私を厭わしい頑迷な、または厭人的な人間だと思い込んで他人にもそんなふうにいいふらす人々よ、お前たちが私に対するそのやり方は何と不正当なことか! お前たちにそんな思い違いをさせることの隠れたほんとうの原因をお前たちは悟らないのだ。 幼い頃からこのかた、私の心情も精神も、善行を好む優しい感情に傾いていた。 偉大な善行を成就しようとすることをさえ、私は常に自分の義務だと考えて来た。 しかし考えてもみよ、六年以来、私の状況がどれほど惨めなものかを!――無能な医者たちのため容態を悪化させられながら、やがては恢復するであろうとの希望に歳から歳へと欺かれて、ついには病気の慢性であることを認めざるを得なくなった――たとえその恢復がまったく不可能ではないとしても、おそらく快癒のためにも数年はかかるであろう。 社交の楽しみにも応じやすいほど熱情的で活溌な性質をもって生まれた私は、早くも人々からひとり遠ざかって孤独の生活をしなければならなくなった。 折りに触れてこれらすべての障害を突破して振舞おうとしてみても、私は自分の耳が聴こえないことの悲しさを二倍にも感じさせられて、何と苛酷に押し戻されねばならなかったことか! しかも人々に向かって――「もっと大きい声で話して下さい。 叫んでみて下さい。 私はつんぼですから!」ということは私にはどうしてもできなかったのだ。 ああ! 他の人々にとってよりも私にはいっそう完全なものでなければならない一つの感覚(聴覚)、かつては申し分のない完全さで私が所有していた感覚、たしかにかつては、私と同じ専門の人々でもほとんど持たないほどの完全さで私が所有していたその感覚の弱点を人々の前へさらけ出しに行くことがどうして私にできようか!――何としてもそれはできない!――それ故に、私がお前たちの仲間入りをしたいのにしかもわざと孤独に生活するのをお前たちが見ても、私を赦してくれ! 私はこの不幸の真相を人々から誤解されるようにして置くよりほか仕方がないために、この不幸は私には二重につらいのだ。 人々の集まりの中へ交じって元気づいたり、精妙な談話を楽しんだり、話し合って互いに感情を流露させたりすることが私には許されないのだ。 ただどうしても余儀ないときにだけ私は人々の中へ出かけてゆく。 まるで放逐されている人間のように私は生きなければならない。 人々の集まりへ近づくと、自分の病状を気づかれはしまいかという恐ろしい不安が私の心を襲う。 ――この半年間私が田舎で暮らしたのもその理由からであった。 できるだけ聴覚を静養せよと賢明な医者が勧告してくれたが、この医者の意見は現在の私の自発的な意向と一致したのだ。 とはいえ、ときどきは人々の集まりへ強い憧れを感じて、出かけてゆく誘惑に負けることがあった。 けれども、私の脇にいる人が遠くの横笛フレーテの音を聴いているのに私にはまったく何も聴こえず、だれかが羊飼いのうたう歌を聴いているのに私には全然聴こえないとき、それは何という屈辱だろう***

たびたびこんな目に遭ったために私はほとんどまったく希望を喪った。 みずから自分の生命を絶つまでにはほんの少しのところであった。 ――私を引き留めたものはただ「芸術」である。 自分が使命を自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。 そのためこのみじめな、実際みじめな生を延引して、この不安定な肉体を――ほんのちょっとした変化によっても私を最善の状態から最悪の状態へ投げ落とすことのあるこの肉体をひきずって生きて来た!――忍従!――今や私が自分の案内者として選ぶべきは忍従であると人はいう。 私はそのようにした。 ――願わくば、耐えようとする私の決意が永く持ちこたえてくれればいい。 ――厳しい運命の女神らが、ついに私の生命の糸を断ち切ることを喜ぶその瞬間まで。 自分の状態がよい方へ向かうにもせよ悪化するにもせよ、私の覚悟はできている。 ――二十八歳で止むを得ず早くも悟った人間フィロゾーフになることは容易ではない。 これは芸術家にとっては他の人々にとってよりもいっそうつらいことだ。

神(Gottheit)よ、おんみは私の心の奥を照覧されて、それを識っていられる。 この心の中には人々への愛と善行への好みとが在ることをおんみこそ識っていられる。 おお、人々よ、お前たちがやがてこれを読むときに、思え、いかばかり私に対するお前たちの行ないが不正当であったかを。 そして不幸な人間は、自分と同じ一人の不幸な者が自然のあらゆる障害にもかかわらず、価値ある芸術家と人間との列に伍せしめられるがために、全力を尽したことを知って、そこに慰めを見いだすがよい!

お前たち、弟カルルと(ヨーハン)よ、私が死んだとき、シュミット教授がなお存命ならば、ただちに、私の病状の記録作成を私の名において教授に依頼せよ、そしてその病状記録にこの手紙を添加せよ、そうすれば、私の歿後、世の人々と私とのあいだに少なくともできるかぎりの和解が生まれることであろう。 ――今また私はお前たち二人を私の少しばかりの財産(それを財産と呼んでもいいなら)の相続人として定める。

序章-章なし
━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

ベートーヴェンの生涯 - 情報

ベートーヴェンの生涯 03 ハイリゲンシュタットの遺書

ベートーヴェンのしょうがい 03 ハイリゲンシュタットのいしょ

文字数 3,943文字

底本 ベートーヴェンの生涯

青空情報


底本:「ベートーヴェンの生涯」岩波文庫、岩波書店
   1938(昭和13)年11月15日第1刷発行
   1965(昭和40)年4月16日第17刷改版発行
   2010(平成22)年4月21日第77刷改版発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年4月15日作成
2012年5月16日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:ベートーヴェンの生涯

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!