エタ源流考
著者:喜田貞吉
エタげんりゅうこう - きた さだきち
文字数:23,467 底本発行年:1919
1 緒言
往時「エタ」と呼ばれておった不幸なる人々は、本来いかなる性質のものか、またいかなる事情からかくの如き気の毒なる境遇に落ちたか。 この解決は自分の日本民族史研究上、最も必要なる事項であるのみならず、この人達と一般社会との真の融和を得る上にも、まず以て是非とも知っておかなければならぬ問題であると信ずる。
それについて自分は、「穢多」という同情なき文字の使用に甚だ多くの不愉快を感ずる。 「エタ」という名がいかなる由来を有するか、いかなる意義を有するかについては、別項「エタ名義考」中に於いて管見を述べておいた。 よしやその意義がいかにもあれ、「穢多」という文字は「エタ」の語を表わすべく用いられた仮字に相違ない。 しかしそれが仮字であるにしても、かつて或る迷信の上から、彼らは穢れたものであると認められていた時代ならば、或いはこの字を用いておっても、幾らかその意味があったかもしれぬが、今日肉を喰い皮を扱うことが、必ずしも穢れではない、神明これを忌み給うものでないという諒解が出来た時代にまで、この不愉快の仮字を使用する必要はない。
実を言わば「穢多非人」の称は明治四年に廃せられたので、爾後「エタ」なるものは全く存在しない筈である、したがって自分は、もし出来るならば一切この忌わしい言葉を口にしたくないのである。
しかしながら、過去の歴史を説く場合には、どうしてもこれを避ける事が出来ない。
自分もやむをえず、不愉快ながら本編以下多くこれを使用しようと思うが、それにしても「穢多」という同情なき文字は、なるべく避けたい。
どうでそれが発音をあらわすための仮字である以上、いかなる漢字を使用してもよいのであるから、自分は彼らの将来に天恵多からんことを祝福して、「
本編の目的は、所謂「エタ」が我が日本民族上、いかなる地位にあるものなるかを明らかにせんとするのにある。
そして今説明の便宜上、まずその結論を初めに廻して、一言にして自分の所信を言えば、もと「エタ」と呼ばれたものは、現に日本民族と呼ばれているものと、民族上何ら区別あるものではないという事に帰するのである。
ただその執っておった職業や、境遇上の問題からして、種々の沿革・変遷を経て、徳川時代の所謂「穢多」なるものが出来上がった。
その川の末は「エタ」という大きな流れになっておっても、その水源は必ずしも他の普通民の祖先と、そう違ったものではなかった。
その中に運の悪い道筋を取ったものが、彼方の山から、
現在部落民として認められるものは、普通民との数の比較の上から云えば、畿内地方から、兵庫・和歌山・三重・滋賀等、畿内の付近地方が最も濃厚で、岡山・広島等の中国筋から、四国・九州北部という方面がこれにつぎ、関東では埼玉・群馬などに比較的多いが、九州の南部、奥羽の北部など、中央から遠ざかるに従って次第に減少の態となり、青森県では現にただ一部落二百二十四人という数がかぞえられているだけである。
しかしながら、ともかくも彼らはかく広く行き渡っているのであるから、それが同一根源から蕃殖移住したものだとのみは考えにくい。 各地に於いてもと起原を異にしたもので、同一状態の下におったものが、後世法令上の「穢多」という同一の残酷な名称の下に、一括せられたのであることは想像しやすいところである。 したがって地方によっては、今もなおそれぞれ異った名称を用い、エタという名を知らぬ所すら少くないのである。
2 エタの水上
徳川時代のエタは江戸と京都とを両中心としていた。
江戸では有名なる弾左衛門が、関八州から甲・駿・豆・奥の十二州(或いは参遠の一部をも)の「エタ頭」として、寛政十二年の同人の書上によるに、当時エタ・非人七千五百二十八戸を支配していた。
また
かくの如きの状態で、江戸の弾左衛門を除いては、徳川時代に於いてエタ全体の仰視すべき大頭とも云うべきものがなかったが故に、弾左衛門の法が自然にエタ非人の法の如くに心得られ、上方地方のエタの伝うるエタ巻物などの類にも、しばしば弾左衛門のことを引き出している様ではあるが、しかもその弾左衛門自身が、もと摂州池田から鎌倉に移住したのだと伝えられている程であるから、もと各地にいたもので、後にその仲間に入れられたものの多かったことは勿論で、エタの起りとしてはやはり上方地方であった様である。
しかもその上方地方という中に於いても、京都が古く「エタの
正徳二年七月に、備後地方のエタと