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海上の道

著者:柳田国男

かいじょうのみち - やなぎた くにお

文字数:180,928 底本発行年:1963
著者リスト:
著者柳田 国男
底本: 海上の道
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まえがき

私は三十年ほど前に、日本人は如何いかにして渡って来たかという題目について所感を発表したことがあるが、それからこのかた、船と航海の問題が常に念頭から離れなかった。 その中の一つで是非ともここに述べておきたいのは、日本と沖縄とを連ねる交通路のことである。 今では沖縄へ行くのにはおおむね西海岸の航路を取っているが、古くは東海岸を主としていたのではないかということを説いてみたいのである。

日本の南北の交通は、のちに使わなくなった東海岸を余計に使っていたのではないか。 古い航海には東海岸の方が便利であった。 遠浅とおあさの砂浜が多く、短距離を航海しながら船を陸に上げて宿をとり、話がつけばしばらくの間、あがったところに滞在することもできた。 むかしは一年に一回航海すればよかったので、年内に再びやってこようなどということは考えなかったのである。

日本では首里しゅり那覇なはを中心点と見ることに決めてしまったので、東海岸の文化や言葉は後になって変化したのだと考えている。 けれども私は最初からの違いが証明できると思う。 北からずっと一遍に南の方まで航行して、信覚しんかくと書いた石垣いしがきまで行ったのである。 信覚にあたる地名は八重山やえやまにしかないのだから、彼処かしこと早くから往来していたと見なければならない。

それがやや突飛とっぴな考えであるためか、人が信じないけれども、砂浜をねらって、風が強く吹けば、そこに幾日でも碇泊ていはくするというようにして行けば行けるのである。 沖縄本島より宮古島みやこじま、宮古島から多良間島たらまじまを通って八重山群島の方へ行ったと考えても、少しも差支さしつかえない。

私が東海岸と言い出したのは、別に明白な証拠しょうことてないが、沖永良部島おきのえらぶじまや、与論島よろんとうの沿海なども、東西二つの道があったことを島の人は記憶している。 だんだん西の方の海岸を使用するようになり、同じ国頭くにがみへ行くのでも、西側を通って船が行くようになったのは後世のことである。

日本人が主たる交通者であった時代、那覇の港が開けるまでの間は、東海岸地帯は日本と共通するものが多かったと想像できる。 言葉なども多分現在よりも日本に近かったのだろうと思う。 首里・那覇地方は一時盛んに外国人を受け入れて、十カ国ぐらいの人間がいたというから、東側とは大分事情が違うのであった。

本島の知念ちねん玉城たまぐすくから南下して那覇の港へ回航するのは非常に時間がかかる。 その労苦を思えば宮古島の北岸へ行くのは容易であった。 那覇を開いたのは久米島くめじまの方を通ってくる北の航路が開始されてからであるが、それはずい時代の事とされている。 この北の道はかなり骨の折れる航路で、船足ふなあしも早くなければならず、途中で船を修繕する所が必要であった。 余程よほどしっかりした自信、力のある乗手のりてであるうえに、風としおとをよく知っている者でなくてはならなかった。

沖縄本島は飛行機から見ればもちろんだけれども、そうでなくても丘の上にあがると東西両面の海が見える処がある。 其処そこを船をかついで東側から西側へ越えれば容易に交通ができると考えるかもしれないが、しかし人の系統が違うとそう簡単には行かない。

私が一番最初それを感じたのは、NHKの矢成君たちが国頭の安田あだ安波あはの会話を録音してきたのを聞いたときである。 最初は日本本土の人が移住して来たのではないかと思ったほど、こちらの言葉とよく似ていた。 しかしぐにそれが間違いであり、もともと内地の言葉とそう変っていなかったのだということに勘づいた。 東海岸と西海岸とはいくらもへだたっていないけれども、文化発達の経路が違うために言葉や住民の構成などが異なっているのである。

勝連かつれん文化と私はかりに呼んでいるのだが、その勝連文化と首里・那覇を中心とした文化、すなわち浦添うらそえ文化とでも言うべきものとの間には、系統上の相異があったのではなかろうか。

今日では勝連の文化というものが少しも残されていない。 馬琴ばきんの『弓張月ゆみはりづき』にまで書かれている勝連按司かつれんあじ阿麻和利あまわりは、沖縄の歴史の上で、すっかり悪者にされてしまっているが、これは伊波普猷いはふゆう君などが早くから注意したように、勝敗ところをかえれば忠臣とも逆臣ともなった戦国の世の習いであった。 『おもろ草紙そうし』を見てもわかるように、勝連が当時の文化の中心であったことは大和やまとの鎌倉のごとしと歌われていた通りであった。

往時わが国では如何なる船を使って南北の間を航海したのであろうか。 専門の造船業者のなかった時代を考えると、船材の得られる場所をみつけて、そこで船を造って用いたに違いない。 たとえば安芸あきの国、それに周防すおうなど、今でも船材を多く出しているし、中世においては建築木材を出しており、奈良の大きな寺院の建立などには常に用材を供給していた。

日本人の渡来を問題にするとき、東海岸の航路を取り上げざるを得ない。 どの辺にはじめて上陸したかについては、いろいろな説が成り立ち得るが、日向ひゅうが高千穂たかちほに天からりたということを承認すれば問題にならぬけれども、それがあり得べからざることとすれば、やはり日向などで船を仕立てて北上したことが想像される。 神武天皇の御東征にしても、潮の激しく、風の強い関門海峡を通らずに、じかに東海岸からずっと瀬戸内海に入ってしまわれたのだから、東西二つの交通路を並べていうと、東の方が一時代古いということは言えそうである。

まえがき

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海上の道 - 情報

海上の道

かいじょうのみち

文字数 180,928文字

著者リスト:
著者柳田 国男

底本 海上の道

親本 定本柳田国男集 第一巻

青空情報


底本:「海上の道」岩波文庫、岩波書店
   1978(昭和53)年10月16日第1刷発行
   2010(平成22)年4月5日第34刷発行
底本の親本:「定本柳田國男集 第一巻」筑摩書房
   1963(昭和38)年9月25日
初出:まえがき「海上の道」筑摩書房
   1961(昭和36)年
   海上の道「心 第五巻第一〇号・第一一号・第一二号」酣燈社
   1952(昭和27)年10月〜12月
   海神宮考「民族学研究 第一五巻第二号」日本民族学協会
   1950(昭和25年)11月
   みろくの船「心 第四巻第七号」酣燈社
   1951(昭和26年)10月1日
   根の国の話「心 第八巻第九号」生成会
   1955(昭和30年)9月1日
   鼠の浄土「伝承文化 第一号」成城大学民俗学研究室
   1960(昭和35)年10月10日
   宝貝のこと「文化沖縄 第二巻第七号」沖縄文化協会
   1950(昭和25年)10月20日
   人とズズダマ「自然と文化 第三号」自然史学会
   1953(昭和28)年2月1日
   稲の産屋「新嘗の研究 第一輯」創元社
   1953(昭和28)年11月23日
   知りたいと思う事二、三「民間伝承 第一五第七号」日本民俗学会
   1951(昭和26年)11月5日
※「倭名鈔」と「倭名抄」の混在は、底本通りです。
※底本の「まえがき」は、「海上の道」(筑摩書房、1961(昭和36)年7月15日発行)の著者訂正稿によります。
※底本の「索引」は、「海上の道」(筑摩書房、1961(昭和36)年7月15日発行)によります。
※図は、「海上の道」筑摩書房、1961(昭和36)年7月15日からとりました。
※底本の「索引」では、項目の参照先として頁数を示していますが、本テキストでは省略しました。
入力:Nana ohbe
校正:酔いどれ狸
2014年5月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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