地球儀
著者:牧野信一
ちきゅうぎ - まきの しんいち
文字数:4,028 底本発行年:1924
祖父の十七年の法要があるから帰れ――といふ母からの手紙で、私は二タ月振り位ひで小田原の家へ帰つた。
「此頃はどうなの?」私は父のことを訊ねた。
「だん/\悪くなるばかり……」母は押入を片附けながら云つた。 続けて、そんな気分を振り棄てるやうに、
「此方の家はほんとに狭くて斯んな時には全く困つて了ふ。 第一何処に何が蔵つてあるんだか少しも解らない。」 などと呟いてゐた。
「僕の事をおこつてゐますか?」
「カンカン!」母は面倒くさゝうに云つた。
「ふゝん!」
「これからもうお金なんて一文もやるんぢやないツて――私まで大変おこられた。」
「チエツ!」と私はセヽラ笑つた。 屹度さうくるだらうとは思つてゐたものゝ、明らかに云はれて見るとドキツとした。 セヽラ笑つて見たところで、私自身も母も、私自身の無能とカラ元気とを却つて醜く感ずるばかりだ。
「もうお父さんの事はあてにならないよ。 あの年になつての事だもの……」
これは父の放蕩を意味するのだつた。
「勝手にするがいゝさ。」 私はおこつたやうな口調で呟くと、如何にも腹には確然とした或る自信があるやうな顔をした。 斯んなものゝ云ひ方や斯んな態度は、私が此頃になつて初めて発見した母に対する一種のコケトリーだつた。 だが私が用ふのは何時も此手段の他はなく、さうして其場限りで何の効もないので今ではもう母の方で、もう聞き飽きたよといふ顔をするのだつた。
「もう家もお終ひだ。 私は覚悟してゐる。」 と母は云つた。
私は、母が云ふこの種の言葉は凡て母が感情に走つて云ふのだ、といふ風にばかり事更に解釈しようと努めた。
「だけど、まアどうにかなるでせうね。」 私は何の意味もなく、たゞ自分を慰めるやうに易々と見せかけた。 斯んな私の楽天的な態度にもすつかり母は愛想を尽してゐた。
母は、ちよつと笑ひを浮べた儘黙つて、煙草盆を箱から出しては一つ一つ拭いてゐた。
私も、話だけでも父の事に触れるのは厭になつた。
「明日は叔父さん達も皆な来るでせう。」
「皆な来ると云つて寄こした。」
また父の事が口に出さうになつた。
「躑躅が好く咲いてる。」 と私は云つた。
「お前でも花などに気がつく事があるの。」
「そりや、ありますとも。」 と私は笑つた。 母も笑つた。