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私本太平記 03 みなかみ帖

著者:吉川英治

しほんたいへいき - よしかわ えいじ

文字数:124,786 底本発行年:1990
著者リスト:
著者吉川 英治
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石の降る

古市ふるちの朝は、舟の櫓音ろおとやら車の音で明けはじめる。

ほどなく、散所民さんじょみんのわめき声だの、赤子の泣き声。 そして、いちの騒音も陽と共に高くなり、やがて型どおりな毎日の生態と砂塵が附近一帯をたちめてくる。

「まだ帰らぬの」

「……帰りませんなあ」

出屋敷でやしきの板かべの一間から、日野俊基は、外ばかり見ていた。 ――夜来、かしずいていた石川ノ豊麻呂とよまろも、まんじりもしなかった瞼である。

「たかの知れた放免一人、あの二人が、討ち損じるはずはないと思われますが」

豊麻呂には、自責もあった。

俊基の身をここへ隠し、つきまとう八荒坊は、高野街道へおびき出して、頼春と菊王の手で打ち果させるという計は、そもそも、自分が妙策と信じていい出したことなのだ。

「ご窮屈でも、弁ノ殿には、しばし、ここにてお待ち下さいませぬか」

「お身はどこへ?」

「万一のため、部下に命じて、高野街道を中心に、手分けさせておりますが、それらの者も、なぜか、まだ一人とて立ち帰って来ません。 自身、石川まで行って、吉左右きっそうのほど、確かめてまいりまする」

豊麻呂は出て行った。

いや、そんな悠長さではなく、飛ぶがごとく駈けてゆく背は、いかにも自責のつよい若者の純情ぶりを思わせる。

ところが。 ――その豊麻呂もなかなか戻って来なかった。 すでにひるすぎ。 やっと帰っては来たが、その姿は、朝にもまして疲労とほこりにまみれていた。

「どうした? 豊麻呂」

「なんとも、せぬことになりました。 八荒坊が討たれたらしい形跡けいせきもなく、頼春と菊王の安否の程もわかりません」

「さては、不首尾か」

「が、部下どもの探りによれば、天見あまみの辺では、八荒坊にもあらぬ偽山伏の放免の死骸が、幾つか見られ、そのどれもが、みな矢キズを負っていたと申しまする」

「はての。 二人は、弓は持たなかったはず。 さらには、同類の偽山伏が、ほかにも大勢いたとすれば、何ぞの手違いが、起ったものに相違ない」

「されば、放免どもはいつか、弁ノ殿がここにおひそみのことまで偵知したらしく、日頃から居る地元の諜者いぬもみなげて、ここの出屋敷のぐるりを見張っておりまする」

「なに、ここをも?」

俊基は、がくとした。

すべては破綻はたんか、と思わぬわけにゆかなかった。 そして常々、ふところの深くに持っていた一包の毒薬が、すぐ意識となって、肌の毛穴に、人知れず、覚悟をそそけ立たせてくる。

いちどは鎌倉にとらわれた前科の身だ。 絶体絶命とみたら、いつでも護持する綸旨りんじを灰として、自身は毒を仰服あおぐ決意を秘めていたのである。 ――しかし、これが公卿というものか、姿は、常と変らぬ静かな人に見えていた。

まもなく。 散所民の板小屋やかかぶねとまに、チラチラ灯を見る夕となっていた。 すると、街から出屋敷の長い土塀の外へかけて、

石の降る

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私本太平記 - 情報

私本太平記 03 みなかみ帖

しほんたいへいき 03 みなかみじょう

文字数 124,786文字

著者リスト:
著者吉川 英治

底本 私本太平記(二)

青空情報


底本:「私本太平記(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1990(平成2)年2月11日第1刷発行
   2010(平成22)年4月1日第29刷発行
※副題は底本では、「みなかみ帖(じょう)」となっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2012年11月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:私本太平記

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