中原を指して
一
蜀の大軍は、
陽(陝西省・
県、漢中の西)まで進んで出た。
ここまで来た時、
「魏は関西の精兵を以て、長安(陝西省・西安)に布陣し、大本営をそこにおいた」
という情報が的確になった。
いわゆる天下の嶮、蜀の桟道をこえて、ここまで出てくるだけでも、軍馬は一応疲れる。
孔明は、
陽に着くと、
「ここには、亡き馬超の墳がある。
いまわが蜀軍の北伐に遭うて、地下白骨の自己を嘆じ、なつかしくも思っているだろう。
祭を営んでやるがよい」
と、馬岱を祭主に命じ、あわせてその期間に、兵馬を休ませていた。
一日、魏延が説いた。
「丞相。
それがしに、五千騎おかし下さい。
こんなことをしている間に、長安を潰滅してみせます」
「策に依ってはだが……?」
「ここと長安の間は、長駆すれば十日で達する距離です。
もしお許しあれば、秦嶺を越え、子午谷を渡り、虚を衝いて、敵を混乱に陥れ、彼の糧食を焼き払いましょう。
――丞相は斜谷から進まれ、咸陽へ伸びて出られたら、魏の夏侯楙などは、一鼓して破り得るものと信じますが」
「いかんなあ」
孔明は取り上げない。
雑談のように軽く聞き流して、
「もし敵に智のある者がいれば、兵をまわして、山際の切所を断つにきまっている。
そのときご辺の五千の兵は、一人も生きては帰れないだろう」
「でも、本道を進めば、魏の大軍に対して、どれほど多くの損害を出すか知れますまい」
孔明はうなずいた。
その通りであると肯定しているものの如くである。
そして彼は彼の考えどおり軍を進ませた。
隴右の大路へ出でて正攻法を取ったものである。
これは、魏の予想に反した。
孔明はよく智略を用いるという先入観から、さだめし奇道を取ってくるだろうと信じて、ほかの間道へも兵力を分け、大いに備えていたところが、意外にも蜀軍は堂々と直進して来た。
「まず、西
の兵に、一当て当てさせてみよう」
夏侯楙は、韓徳を呼んだ。
これはこんど魏軍が長安を本営としてから、西涼の
兵八万騎をひきいて、なにか一手勲せんと、参加した外郭軍の大将だった。
「鳳鳴山まで出で、蜀の先鋒を防げ。
この一戦は、魏蜀の第一会戦だから、以後の士気にもかかわるぞ。
充分、功名を立てるがいい」
夏侯楙に励まされて韓徳は勇んで立った。
彼に四人の子がある。