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軍艦金剛航海記

著者:芥川龍之介

ぐんかんこんごうこうかいき - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:6,560 底本発行年:1977
著者リスト:
著者芥川 竜之介
親本: 梅・馬・鶯
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暑いフロックを夏の背廣に着換へて外の連中と一しよに上甲板へ出てゐると、年の若い機關少尉が三人やつて來て、いろんな話をしてくれた。 僕は新米だから三人とも初對面だが、外の連中は皆、教室で一度は講義を聞かせた事のある間柄である。 だから、僕は圈外に立つておとなしく諸君子の話を聞いてゐた。 すると其少尉の一人が横須賀でSとSの細君と二人で散歩してゐるのに遇つたら、よくよく中てられたと見えて、其晩から腹が下つたと云ふ話をした。 外の連中はそれを聞くと、あははと大きな聲を出した。 唯新婚後間のないSだけはその仲間にはいらなかつた。 これは嬉しさうに、にやにや笑つたのである。 自分は、夕日の光を一ぱいに浴びた軍港を眺めながら、新らしい細君を家に殘して來たSに對して憐憫に近い同情を感じた。 さうしたら、何故か急に旅らしい心細い氣もちになつた。

標的を曳いてゐる艦は、さつきから二隻の小蒸汽に艦尾を曳かれて、方向を右に轉じようとしてゐる。 素人眼には、小蒸汽の艫に推進機スクリユーが起してゐる、白い泡を見ても、どれほどその爲にこの二萬九千噸の巡洋艦が動いてゐるかわからない。 先に錨をあげた榛名は既に煙を吐き乍ら徐に港口を西に向つて、離れようとしてゐる。 それがまた、梅雨晴れの空の下に起伏してゐる山々の鮮な緑と、眩ゆく日の光を反射してゐる水銀のやうな海面とを背景にして、美しいパノラミックな景色をつくつてゐる。 この光景を眺めた僕には、金剛の容易に出航しさうもないのが聊かもどかしく思はれた。 そこで、又外の連中の話に加はつて、このもどかしさを紛らせようとした。

すると、すぐ側のハツチの下でぢやんぢやんと、夕飯を知らせる銅鑼の音がした。 その音は軍艦の中とは思はれない程、古めかしいものであつた。 僕はそれを聞くと同時に長谷にある古道具屋を思ひ出した。 そこには朱塗の棒と一緒に、怪しげな銅鑼が一つ、萬年青の鉢か何かの上にぶら下つてゐる。 僕は急に軍艦の銅鑼が見たくなつたから、ほかの連中より先にハツチを下りて、それを叩いて行く水兵に追ひついた。 所が追ひついて見るとぢやんぢやんの正體は銅鑼と云ふ名を與へるのが僭越な程、平凡なうすべつたい、けちな金盥にすぎなかつた。 僕は滑稽な失望を感じて、すごすご士官室ウアドルームの海老茶色のカアテンをくぐつた。

士官室では大きな扇風器が幾つも頭の上でまはつてゐた。 その下に白いテーブル掛をかけた長い食卓が二側にならんで、つきあたりの、鏡を入れた大きなカツプボオドには、銀の花瓶が二つ置いてあつた。 食卓につくと、すぐにボイが食事を持つて來てくれる。 さうして靜に、しかも敏活に、給仕をしてくれる。 僕は生鮭の皿を突つきながら、Sに「軍艦のボイは氣が利いてますね」と云つた。 Sは「ええ」とか何とか氣のない返事をした。 事によると、これは軍艦のボイより、細君の方が氣が利いてゐると思つたからかも知れない。 外の連中は皆同じ食卓についた八田機關長を相手にして、小林法雲の氣合術の事なんぞを話してゐた。

元來この士官室なるものへは、副長以下大尉以上の將校が皆な來て、飯を食ふ。 そこで僕はこの際、いろんな人の顏を覺えた。 さうしてそれと同時にシイメンの顏には、一種のタイプがある事を發見した。

夕飯をしまつた後で、上甲板から最上甲板へ上ると、どこかから男ぶりの好い少尉が一人やつて來て、僕たちを前部艦橋へつれて行つてくれた。 軍艦の中で艦首から艦尾を一目に見渡す所と云ふと、先づここの外にない。 僕たちは司令塔の外に立つて何時か航行を始め出した艦の前後に眼を落した。 眼分量にして、凡そ十五六呎の高さにゐるのだから、甲板の上にゐる水兵や將校も、可成小さく見える。 僕にはその小さな水兵の一人が、測鉛臺の上に立つて青い海に向ひながら、長い綱の先につけた分銅を、水の中へ投げこんでゐるのが殊に面白かつた。

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軍艦金剛航海記 - 情報

軍艦金剛航海記

ぐんかんこんごうこうかいき

文字数 6,560文字

著者リスト:

底本 芥川龍之介全集 第一卷

親本 梅・馬・鶯

青空情報


底本:「芥川龍之介全集 第一卷」岩波書店
   1977(昭和52)年7月13日発行
底本の親本:「梅・馬・鶯」
入力:岡山勝美
校正:noriko saito
2010年9月14日作成
2011年4月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:軍艦金剛航海記

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