• URLをコピーしました!

ねむい

原題:СПАТЬ ХОЧЕТСЯ

著者:アントン・チェーホフ Anton Chekhov

ねむい

文字数:5,906 底本発行年:1960
著者リスト:
0
0
0


序章-章なし

夜ふけ。 十三になる子守り娘のワーリカが、赤んぼのている揺りかごを揺すぶりながら、やっと聞こえるほどの声で、つぶやいている。 ――

ねんねんよう おころりよ、

唄をうたってあげましょう。 ……

聖像の前に、みどり色の燈明がともっている。 部屋の隅から隅へかけて、細引が一本わたしてあって、それにお襁褓むつや、大きな黒ズボンが吊るしてある。 燈明から、みどり色の大きな光の輪が天井に射し、お襁褓やズボンは、ほそ長い影を、煖炉ペチカや、揺りかごや、ワーリカに投げかけている。 ……燈明がまたたきはじめると、光の輪や影は活気づいて、風に吹かれているように動きだす。 むんむんする。 キャベツ汁と、商売どうぐの靴革のにおい。

赤んぼは泣いている。 さっきから泣きつづけで、もうとうに声がかれ、精根つきているのだけれど、あい変らず泣いていて、いつやまるのかわからない。 ワーリカは、ねむくてたまらない。 眼がくっつきそうだし、頭は下へ下へと引っぱられて、首根っこがずきずきする。 まぶたひとつ、唇ひとつ、うごかすこともできず、まるで顔がかさかさにあがって木になって、頭は留針ピンのあたまみたいに、縮まったような気がする。

「ねんねんよう、おころりよ」と、彼女はつぶやく、「おかゆをこさえてあげましょう。 ……」

煖炉ペチカのなかで、コオロギが鳴く。 となりの部屋では、ドアごしに、主人と従弟いとこのアファナーシイのいびきが、をおいてきこえる。 ……揺りかごは悲しげにきしり、当のワーリカはぶつぶつつぶやく――それがみんな一つに溶けあって、夜ふけの寝んねこ唄を奏でているのを、寝床に手足をのばして聞いたら、さぞ楽しいことだろう。 ところが今は、せっかくのその音楽も、いらだたしく、くるしいだけだ。 というのは、うとうと眠気をさそうくせに、眠ったら百年目だからだ。 まんいちワーリカが寝こんだら最後、旦那だんなやおかみさんに、ぶたれるだろう。

燈明がまたたく。 みどり色の光の輪と影が、また動きだして、ワーリカの半びらきの、じっとすわった眼へいこむと、はんぶん寝入った脳みそのなかで、もやもやした幻に組みあがる。 見ると、くろ雲が、そらで追っかけっこをしながら、赤んぼみたいに泣いている。 そこへ、さっと風が吹いて、雲が消えると、ワーリカには、いちめんぬかるみの、ひろい街道が見えだす。 街道には、荷馬車の列がつづき、背負い袋をしょった人たちがよたよた歩いて、何やら物影が行ったり来たりしている。 両側には、冷たい、すごい霧をとおして、森が見える。 と急に、背負い袋と影をしょった人たちが、ぬかるみの地べたへ、ばたばた倒れる。 ――『どうしたの?』と、ワーリカがきく。 ――『寝るんだ、寝るんだ!』と、みんなが答える。 そしてみんな、ぐっすり寝入る。 すやすや眠る。 ところが電信の針金に、からすやカササギがとまっていて、赤んぼみたいにき立てては、みんなを起こそうと精を出す。

「ねんねんよう、おころりよ、唄をうたってあげましょう……」と、ワーリカはつぶやくと、今度は自分が、暗い、むんむんする百姓小屋のなかにいるのが見える。

ゆかには、死んだ父親のエフィーム・ステパーノフが、ごろごろしている。

序章-章なし
━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

ねむい - 情報

ねむい

ねむい

文字数 5,906文字

著者リスト:

底本 カシタンカ・ねむい 他七篇

親本 チェーホフ全集 第七巻

青空情報


底本:「カシタンカ・ねむい 他七篇」岩波文庫、岩波書店
   2008(平成20)年5月16日第1刷発行
   2008(平成20)年6月25日第2刷発行
底本の親本:「チェーホフ全集 第七巻」中央公論社
   1960(昭和35)年発行
入力:米田
校正:noriko saito
2010年7月6日作成
2012年2月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:ねむい

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!