序章-章なし
夜ふけ。
十三になる子守り娘のワーリカが、赤んぼの臥ている揺りかごを揺すぶりながら、やっと聞こえるほどの声で、つぶやいている。
――
ねんねんよう おころりよ、
唄をうたってあげましょう。
……
聖像の前に、みどり色の燈明がともっている。
部屋の隅から隅へかけて、細引が一本わたしてあって、それにお襁褓や、大きな黒ズボンが吊るしてある。
燈明から、みどり色の大きな光の輪が天井に射し、お襁褓やズボンは、ほそ長い影を、煖炉や、揺りかごや、ワーリカに投げかけている。
……燈明がまたたきはじめると、光の輪や影は活気づいて、風に吹かれているように動きだす。
むんむんする。
キャベツ汁と、商売どうぐの靴革のにおい。
赤んぼは泣いている。
さっきから泣きつづけで、もうとうに声がかれ、精根つきているのだけれど、あい変らず泣いていて、いつやまるのかわからない。
ワーリカは、ねむくてたまらない。
眼がくっつきそうだし、頭は下へ下へと引っぱられて、首根っこがずきずきする。
まぶたひとつ、唇ひとつ、うごかすこともできず、まるで顔がかさかさに乾あがって木になって、頭は留針のあたまみたいに、縮まったような気がする。
「ねんねんよう、おころりよ」と、彼女はつぶやく、「お粥をこさえてあげましょう。
……」
煖炉のなかで、コオロギが鳴く。
となりの部屋では、ドアごしに、主人と従弟のアファナーシイのいびきが、間をおいてきこえる。
……揺りかごは悲しげにきしり、当のワーリカはぶつぶつつぶやく――それがみんな一つに溶けあって、夜ふけの寝んねこ唄を奏でているのを、寝床に手足をのばして聞いたら、さぞ楽しいことだろう。
ところが今は、せっかくのその音楽も、いらだたしく、くるしいだけだ。
というのは、うとうと眠気をさそうくせに、眠ったら百年目だからだ。
まんいちワーリカが寝こんだら最後、旦那やおかみさんに、ぶたれるだろう。
燈明がまたたく。
みどり色の光の輪と影が、また動きだして、ワーリカの半びらきの、じっとすわった眼へ這いこむと、はんぶん寝入った脳みそのなかで、もやもやした幻に組みあがる。
見ると、くろ雲が、空で追っかけっこをしながら、赤んぼみたいに泣いている。
そこへ、さっと風が吹いて、雲が消えると、ワーリカには、いちめんぬかるみの、ひろい街道が見えだす。
街道には、荷馬車の列がつづき、背負い袋をしょった人たちがよたよた歩いて、何やら物影が行ったり来たりしている。
両側には、冷たい、すごい霧をとおして、森が見える。
と急に、背負い袋と影をしょった人たちが、ぬかるみの地べたへ、ばたばた倒れる。
――『どうしたの?』と、ワーリカがきく。
――『寝るんだ、寝るんだ!』と、みんなが答える。
そしてみんな、ぐっすり寝入る。
すやすや眠る。
ところが電信の針金に、鴉やカササギがとまっていて、赤んぼみたいに啼き立てては、みんなを起こそうと精を出す。
「ねんねんよう、おころりよ、唄をうたってあげましょう……」と、ワーリカはつぶやくと、今度は自分が、暗い、むんむんする百姓小屋のなかにいるのが見える。
床には、死んだ父親のエフィーム・ステパーノフが、ごろごろしている。