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上海游記

著者:芥川龍之介

しゃんはいゆうき - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:33,962 底本発行年:1996
著者リスト:
著者芥川 竜之介
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一 海上

いよいよ東京を発つと云う日に、長野草風氏が話しに来た。 聞けば長野氏も半月程後には、支那旅行に出かける心算つもりだそうである。 その時長野氏は深切にも船酔いの妙薬を教えてくれた。 が、門司から船に乗れば、二昼夜経つか経たない内に、すぐもう上海シャンハイへ着いてしまう。 高が二昼夜ばかりの航海に、船酔いの薬なぞを携帯するようじゃ、長野氏の臆病も知るべしである。 ――こう思った私は、三月二十一日の午後、筑後丸の舷梯に登る時にも、雨風に浪立った港内を見ながら、再びわが長野草風画伯の海にきょうなる事を気の毒に思った。

処が故人を軽蔑した罰には、船が玄海にかかると同時に、見る見る海が荒れ初めた。 同じ船室に当った馬杉ますぎ君と、上甲板の籐椅子に腰をかけていると、舷側にぶつかる浪の水沫しぶきが、時々頭の上へも降りかかって来る。 海は勿論まっ白になって、底が轟々ごうごう煮え返っている。 その向うに何処かの島の影が、ぼんやり浮んで来たと思ったら、それは九州の本土だった。 が、船に慣れている馬杉君は、巻煙草の煙を吐き出しながら、一向弱ったらしい気色けしきも見せない。 私は外套の襟を立てて、ポケットへ両手を突っこんで、時々仁丹じんたんを口に含んで、――要するに長野草風氏が船酔いの薬を用意したのは、賢明な処置だと感服していた。

その内に隣の馬杉君は、バアか何処かへ行ってしまった。 私はやはり悠々と、籐椅子に腰を下している。 はた眼には悠々と構えていても、頭の中の不安はそんなものじゃない。 少しでも体を動かしたが最後、すぐに目まいがしそうになる。 その上どうやら胃袋の中も、穏かならない気がし出した。 私の前には一人の水夫が、絶えず甲板を往来している。 (これは後に発見した事だが、彼もまた実は憐れむべき船酔い患者の一人だったのである。)その目まぐるしい往来も、私には妙に不愉快だった。 それから又向うの浪の中には、細い煙を挙げたトロオル船が、ほとんど船体も没しないばかりに、際どい行進を続けている。 一体何の必要があって、あんなに大浪をかぶって行くのだか、その船も当時の私には、業腹ごうはらで仕方がなかったものである。

だから私は一心に、現在の苦しさを忘れるような、愉快な事ばかり考えようとした。 子供、草花、渦福うずふくの鉢、日本アルプス、初代ぽんた、――後は何だったか覚えていない。 いや、まだある。 何でもワグネルは若い時に、英吉利イギリスへ渡る航海中、ひどい暴風雨に遇ったそうである。 そうしてその時の経験が、後年フリイゲンデ・ホルレンデルを書くのに大役を勤めたそうである。 そんな事もいろいろ考えて見たが、頭はますますふらついて来る。 胸のむかつくのもなおりそうじゃない。 とうとうしまいにはワグネルなぞは、犬にでも食われろと云う気になった。

十分ばかり経った後、寝床バアスに横になった私の耳には、食卓の皿やナイフなぞが一度に床へ落ちる音が聞えた。 しかし私は強情に、胃の中の物が出そうになるのを抑えつけるのに苦心していた。 この際これだけの勇気が出たのは、事によると船酔いにかかったのは、私一人じゃないかと云う懸念があったおかげである。 虚栄心なぞと云うものも、こう云う時には思いの外、武士道の代用を勤めるらしい。

処が翌朝になって見ると、少くとも一等船客だけは、いずれも船に酔った結果、唯一人の亜米利加人アメリカじんの外は、食堂へも出ずにしまったそうである。 が、その非凡なる亜米利加人だけは、食後も独り船のサロンに、タイプライタアを叩いていたそうである。 私はその話を聞かされると、急に心もちが陽気になった。 同時にその又亜米利加人が、怪物のような気がし出した。 実際あんなしけに遇っても、泰然自若としているなぞは、人間以上の離れ業である。 或はあの亜米利加人も、体格検査をやって見たら、歯が三十九枚あるとか、小さな尻尾が生えているとか、意外な事実が見つかるかも知れない。

一 海上

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上海游記 - 情報

上海游記

しゃんはいゆうき

文字数 33,962文字

著者リスト:

底本 上海游記・江南游記

親本 芥川龍之介全集 第八巻

青空情報


底本:「上海游記・江南游記」講談社文芸文庫、講談社
   2001(平成13)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「芥川龍之介全集 第八巻」岩波書店
   1996(平成8)年6月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※編集部による注は省略しました。
入力:門田裕志
校正:岡山勝美
2015年4月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:上海游記

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