黒馬旅館の客
影のような男
怪物!
そうだ、怪物にちがいない。
怪物でなくて、なんだろう? 科学が発達した、いまの世の中に、東洋の忍術使いじゃあるまいし、姿がみえない人間がいるなんて、これは、たしかに変だ。
奇怪だ!
しかし、それは、ほんとうの話だった。
怪物ははじめに、ものさびしい田舎にあらわれた。
それからまもなく、あちこちの町にも出没するようになったのである。
たいへんな騒ぎになったことは、いうまでもない。
その怪物の姿は、まるっきり見えないのである。
すきとおっていて、ガラス、いや空気のように透明なのだ。
諸君は、そんなことがあるもんか――と、いうだろう。
だが、待ちたまえ!
怪物が、はじめて田舎のその村にやってきたのは、たしか二月もおわりに近い、ある寒い朝のことだった。
身をきるような風がふいて、朝から粉雪がちらちら舞っていた。
こんな寒い日は、土地のものだって外を出あるいたりはしない。
その男は、丘をこえて、ブランブルハースト駅から歩いてきたとみえ、あつい手袋をはめた手に、黒いちいさな皮かばんをさげていた。
からだじゅうを、オーバーとえりまきでしっかり包んで、ぼうしのつばをぐっとまぶかにおろし、空気にふれているところといったら、寒さで赤くなっている鼻さきだけであった。
なんともいいようのない、ぞっとするようなふんいきを、あたりにただよわせながら、黒馬旅館のドアをおしひらいてはいってきたのである。
「こう寒くちゃあやりきれない。
火だ! さっそくへやに、火をおこしてもらいたいな」
酒場へ、ずかずかとはいってくるなり、ぶるるんと、からだをゆさぶって雪をはらいおとし、黒馬旅館の女あるじに向かって、そう言った。
いまどき、めずらしい客である。
こんな冬の季節に、しかもこんなへんぴな土地に、旅の商人だってめったにきたことはないのだ。
おかみさんは、びっくりもし、なげだされた二枚の金貨をみると、すっかりよろこんでしまった。
「とうぶん、とめてもらうから」
客をへやに案内すると、暖炉に火をもやしてたきぎをくべ、台所でお手伝いにてつだわせて、おかみさんはせっせと食事のしたくをした。
スープ皿、コップなどを客室にはこんで、食卓のよういをととのえた。
暖炉の火はさかんにもえて、ぱちぱちと音をたてている。
ところが、火にあたっている客はこちらに背をむけたまま、ぼうしもオーバーもぬごうとはしないで、つっ立っている。
中庭にふりつもる雪をみつめながら、なにか考えているようだった。
オーバーの雪がとけて、しずくが床のじゅうたんの上にしたたり落ちていた。
「もし、あのう、おぼうしとオーバーを、おぬぎになりましたら? 台所でかわかしてまいりますわ」
と、おかみさんが声をかけた。
「いいんだ」
ふりむきもしないで、客が、ぶっきらぼうに言った。
おかみさんはあわてて、残りの皿をとりに台所へもどった。
料理をはこんで、もういちど客室にきてみると、客はまだ、さっきとおなじ姿勢で窓のほうをむいていた。
「お食事のよういができました」