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この子を残して

著者:永井隆

このこをのこして - ながい たかし

文字数:101,029 底本発行年:1991
著者リスト:
著者永井 隆
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序章-章なし

扉の挿絵

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永井博士一家(写真右より誠一さん、博士、茅野さん)

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「浦上天主堂の廃墟にたつ誠一、茅野兄弟。」</span data-aspectratio=

浦上天主堂の廃墟にたつ誠一、茅野兄弟。

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この子を残して

うとうとしていたら、いつの間に遊びから帰ってきたのか、カヤノが冷たいほほを私のほほにくっつけ、しばらくしてから、

「ああ、……お父さんのにおい……」

と言った。

この子を残して――この世をやがて私は去らねばならぬのか!

母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさな心のいじらしさ。 戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?

枯木すら倒るるまでは、その幹のうつろに小鳥をやどらせ、雨風をしのがせるという。 重くなりゆく病の床に、まったく身動きもままならぬ寝たきりの私であっても、まだ息だけでも通っておれば、この幼子にとっては、寄るべき大木のかげと頼まれているのであろう。 けれども、私の体がとうとうこの世から消えた日、この子は墓から帰ってきて、この部屋のどこに座り、誰に向かって、何を訴えるのであろうか?

――私の布団を押し入れから引きずり出し、まだ残っている父のにおいの中に顔をうずめ、まだ生え変わらぬ奥歯をかみしめ、泣きじゃくりながら、いつしか父と母と共に遊ぶ夢のわが家に帰りゆくのであろうか? 夕日がかっと差しこんで、だだっ広くなったその日のこの部屋のひっそりした有様が目に見えるようだ。 私のおらなくなった日を思えば、なかなか死にきれないという気にもなる。 せめて、この子がモンペつりのボタンをひとりではめることのできるようになるまで……なりとも――。

――こんなむごい親子の運命は早くから予想されておらぬでもなかった。 私が大学を出て放射線医学を専門に選び、ラジウムやレントゲン線などを用いる研究に身を入れようと心に決めたとき、実はすでに多くの先輩の学者がこの研究で毎日とりあつかう放射線によって五体をおかされ、ついに科学の犠牲となって生命をおとしたことを詳しく知っていたので、あるいは私もまた同じ運命におちいるのではあるまいか、という予感があったのである。 しかしながら、それは決定的な運命ではなかった。 放射線災害予防については、それらの貴い先輩の犠牲のおかげで、次第に有効な方法が考え出されていたし、従事する私らも十分な注意をしていたからである。 だが、第一次欧州戦争のとき、多くのレントゲン医学者が余りに多くの患者を診療しなければならなかったため、注意をしたにもかかわらず、身体の堪え得る量以上の放射線を受けて、ついにおかされ、死んだ先例があるので、私も何かの事情のため、そんな目にあわぬともかぎらぬと考えた次第であった。 というのは、その当時満州事変が始まったばかりで、どうやら日本が大戦争をひき起こしそうな気配がうかがわれたからであった。 それで、この子の母と結婚するときには、前もってこのことを詳しく話し、万事承諾の上で家庭をもった。

ハンブルグには放射線の犠牲となり、職務による原子病患者として死んだ百余名の世界中の学者の記念碑があって、その人びとの名は真理探求の道に倒れた科学の殉教者として刻んである。 しかし、私は命の惜しい普通の人間だから、とにかく死ぬより生きているほうが好きだった。 早死にしてその学者たちの仲間に加えられるよりは、一日でも長く生きて、好きな研究を一つでも多く仕上げ、家庭的には孫の顔をみて、わが後をつぐものは大丈夫だと安心をして、よいおじいさんとして、ゆっくり大往生をとげたいと願っていた。 そのうえ、原子放射線によってひき起こされる原子病の苦しみは、並み大抵の生やさしいものではなく、生身をちぎるばかりの苦痛があるものと知っていては、なるべくならば、かかりたくないと思うのが人情であろう。 だから私は、原子病の予防にはずいぶんと細かく気をつかった。 生まれつき気の弱い、びくびくもので、学校時代には落ちるのが怖さに鉄棒体操のできないほどの私であった。 原子病を怖がったのは言うまでもない。

このごろではレントゲン器械も良くなって、発生管球は金属でよく包まれ、小さな窓から必要なレントゲン線の束だけが出るようになっているので、あまり危なくないが、昔は私たちは裸管球を使ったもので、それらは四方へ向かって恐ろしいレントゲン線を放射していた。 この放射線は物体に当たると、さらに二次放射線を発生散乱する。 この散乱線がまたも物体に当たると、そこからさらに放射線を出す。 このために放射線室の中は管球の焦点から出てくる主放射線のほかに、おびただしい二次散乱線が前後左右から、あたかも十字砲火のように、飛び交う。

序章-章なし
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この子を残して

このこをのこして

文字数 101,029文字

著者リスト:
著者永井 隆

底本 この子を残して

親本 この子を残して

青空情報


底本:「この子を残して」サン パウロ
   1995(平成7)年4月20日初版発行
   2006(平成18)年7月20日初版15刷
底本の親本:「この子を残して」中央出版社
   1991(平成3)年6月
初出:「この子を殘して」大日本雄辯会講談社
   1948(昭和23)年
※初出の「天主」は、底本ではすべて「神」にあらためられています。その他、散見される書き換えも含め、底本通り入力しました。
※訂正注記にあたっては、初出を参照しました。
※初出に無署名で掲載された写真は、著作権保護期間を過ぎていると判断しておさめました。その際、初出のキャプションを加えました。
※初出の挿絵を、永井誠一、永井茅野によるものをのぞいておさめました。
入力:菅野朋子
校正:富田倫生
2010年7月25日作成
2015年12月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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