桃の雫
著者:島崎藤村
もものしずく - しまざき とうそん
文字数:91,746 底本発行年:1967
六十歳を迎へて
年若い時分には、私は何事につけても深く/\と入つて行くことを心掛け、また、それを歡びとした。 だん/\この世の旅をして、いろ/\な人にも交つて見るうちに、淺く/\と出て行くことの歡びを知つて來た。
路
(岩波書店の雜誌「文學」の創刊に寄す)
古い言葉に、この世にめづらしく思はれるものが三つある。 いや、四つある。 空に飛ぶ鷲の路、磐の上にはふ蛇の路、海に走る舟の路、男の女に逢ふ路がそれである、と。 わたしたちの辿つて行く文學にも路と名のついたものがない。 路と名のついたものは最早わたしたちの路ではない。
生一本
あるところより、日本最古の茶園で製せらるゝといふ茶を分けて貰つた。
日頃茶好きなわたしはうれしく思つて、早速それを試みたところ、成程めづらしい茶だ。
往時支那人がその實をこの園に携へて來て製法までも傳へたとかいふもので、大量に製産する今日普通の器械製とちがひ、こまかい葉の色艶からして見るからに好ましく、手製で精選したといふ感じがする。
まことに正味の茶には相違ないが、いかに言つても
この茶から、わたしは生一本のものが必ずしも自分等の口に適するものでないことを學んだ。
生一本は尊い。
しかしさういふものにかぎつて
頃日、太田君の著『芭蕉連句の根本解説』を折り/\あけて讀んで見た。 芭蕉は本來、生一本で起つた人に相違ない。 さもなくて『冬の日』、『曠野』、『ひさご』の境地から、あの『猿蓑』にまで突き拔け得る筈もない。 しかし蕉門の諸詩人が遺した連句なるものを味つて見ると、芭蕉はじめ、去來、凡兆、杜國、史邦、野水なぞの俳諧が、なか/\たゞの生一本でないことを知る。
大きな言葉と小さな言葉
好い手紙を人から貰つた時ほどうれしいものはない。 眞情の籠つた手紙は、ほんの無沙汰の見舞のやうなものでも好ましい。 それが何度も讀み返して見たいやうな、こまかい心持までよくあらはされたものであれば、なほ/\好ましい。
わたしたちが母の時代の人達は、今日の婦人のやうに手紙を書きかはすことも、あまりしなかつたやうに思はれる。
わたしは少年時代に母の膝もとを離れて東京に遊學したものであるが、郷里にある母から手紙を貰つたことが殆んどなかつた。
母からの便りと言へば、いつでも