共産党宣言
著者:堺利彦訳
きょうさんとうせんげん
文字数:35,306 底本発行年:1945
日本譯の序
この日本譯は、最初、第三章を除いて、週刊『平民新聞』第五十三號(明治三十七年十一月十三日發行)に載せられたところ、忽ち秩序壞亂として起訴され、裁判の結果、關係者はそれぞれ罰金に處せられた。 しかしその裁判の判決文には、『古の文書はいかにその記載事項が不穩の文字なりとするも、……單に歴史上の事實とし、または學術研究の資料として新聞雜誌に掲載するは、……社會の秩序を壞亂するといふ能はざるのみならず、むしろ正當なる行爲といふべし』とあつた。 そこで私は次にその譯文に多少の修正を加へ、および第三章を譯し添へて、今度は『單に歴史上の事實』として、また『學術研究の資料』として、『社會主義研究』第一號(明治三十九年三月十五日發行)に載せた。 (その時には、前の共譯者幸徳はアメリカに行つてゐたので、第三章は私ひとりで譯した。)
しかるに、その『社會主義研究』も程へて後(大逆事件當時)發賣を禁止され、その後今日に至るまで、『共産黨宣言』日本譯の公刊は不可能の状態になつてゐるが、いかに日本が野蠻國で、いかに保守的反動が強いにしても、もう遠からずして、言論自由の範圍が、せめて明治三十九年當時くらゐに復舊する時節は來るだらうと思はれる。 その時には、私はぜひともこの『學術研究の資料』を出來るだけ早く世に出したいと思つてゐる。 ところが、近ごろその古い譯文を讀み返してみると、第一、文體の古くさいことが厭で堪らない。 それにあの時は、單にイギリス譯から重譯したのでもあり、また譯し方の拙いところや、不正確なところや、間違つたところも大ぶんある。 そこで私は今度、その古い譯文をドイツ語の原文と引合せ、また部分的には河上肇氏および櫛田民藏氏の譯文をも參照し、出來るだけ精密に訂正を加へて、口語體に書き直すことにした。 幸徳が生きてゐたら何といふか知らんが、私はやはりこの新譯に彼と二人の名を署しておく。
ドイツ語の新版には、一八七二年のマルクス、エンゲルスの序文のほか、一八八三年のと一八九〇年のと、エンゲルスの序文が二つ載つてゐる。 しかしその内容は次に記したイギリス譯の序に盡されてゐる。
大正十年五月
堺利彦
(日本では、その後、この私の譯文が何人かの手により、祕密出版として數回發行された。 また昨年、大田黒年男氏らの手によつて、『共産黨宣言』と題する四百ページの大册が發行され、禁止にはなつたが、それ以前、少からぬ部數が頒布された。 この大册には『宣言』の本文のほか、リヤザノフの『共産主義者同盟』の歴史と、同じくリヤザノフの、二百ページ以上にわたる『評注』と、エンゲルスの『共産主義の原理』――實は『宣言』の草案――等が附録されてゐる。 一九三〇年七月追記。 堺)
[#改丁]
イギリス譯の序
この『宣言』は、『共産主義同盟』の綱領として發表されたものである。 『同盟』は勞働者の團體で、初めはドイツ人に限られ、後、國際的となり、一八四八年以前のヨーロッパ大陸の政治状態の下において、やむなく祕密結社であつた。 一八四七年十一月、ロンドンに開かれた『同盟』の大會において、理論上および實踐上の、完備した綱領を發表するため、マルクスとエンゲルスとが起草委員に選ばれた。 一八四八年一月、その草稿はまづドイツ文で起草され、二月二十四日のフランス革命の數週前、ロンドンの活版所に送られた。 そして一八四八年六月の一揆のすぐ前に、そのフランス譯がパリにあらはれ、一八五〇年、ヘレン・マクファーレン孃の手になつた第一英譯が、ロンドンの雜誌『レッド・レパブリカン』に現はれた。 オランダ譯とポーランド譯もまた次いで刊行された。
プロレタリヤとブルジョアとの最初の大合戰たる、一八四八年六月のパリ一揆が敗北した時、ヨーロッパ勞働階級の社會的および政治的活動は、また暫く後方に押しこまれてしまつた。 その後、權勢の爭奪は、二月革命以前とおなじく、また有産階級の諸黨派の間にのみ行はれ、勞働階級は僅かに政治的自由のために戰ふこととなり、中流階級急進派の左翼たる地位に引下げられた。 そして獨立のプロレタリヤ運動がなほ多少の生氣を示してゐるところでは、容赦もなく叩き伏せられてしまつた。 かくてプロシャの警察は、當時ケルンにおかれてあつた『共産主義同盟』の本部を搜し出した。 それで、本部員はみな捕縛され、十八箇月の監禁の後、一八五二年十月、初めて公判に付された。 この有名な『ケルン共産黨裁判』は十月四日から十一月十二日まで繼續し、被告のうち、七名は三年から六年まで、それぞれの刑期をもつてある要塞に禁錮する旨を宣告された。 この宣告の後まもなく、『同盟』は殘餘の黨員によつて形式的に解散された。 從つて『宣言』もそれきり埋沒されたもののごとくであつた。
ヨーロッパの勞働階級が、更にその權力階級に向つて一撃を加ふべき十分の鋭氣を回復した時、かの『