鳥影
著者:石川啄木
とりかげ - いしかわ たくぼく
文字数:85,053 底本発行年:1970
其一
一
小川靜子は、兄の信吾が歸省するというふので、二人の妹と下男の松藏を伴れて、
小川家といへば、郡でも相應な資産家として、また、當主の信之が郡會議員になつてゐる所から、主なる有志家の一人として名が通つてゐる。
總領の信吾は、今年大學の英文科を三年に進んだ。
何と思つてか知らぬが、この暑中休暇を東京で暮すと言つて來たのを、
午前十一時何分かに着く筈の下り列車が、定刻を三十分も過ぎてるのに、未だ着かない。
姉妹を初め、三四人の乘客が皆もうプラットフォームに出てゐて、
驛員が二三人、驛夫室の入口に
六月下旬の
か彼方に快い蔭をつくつた、白樺の木立の中に、
靜子は眼を細くして、
今度歸るまいとしたのも、或は其、己に背いた清子と再び逢ふまいとしたのではなからうかと、靜子は女心に考へてゐた。
それにしても歸つて來るといふのは嬉しい、恁う思返して呉れたのは、細々と訴へてやつた自分の手紙を讀んだ爲だ、兄は自分を援けに歸るのだと許り思つてゐる。
靜子は、今持上つてゐる縁談が、種々の事情から兩親始め祖父までが折角勸めるけれど、自分では
『來た、來た。』 と、背の低い驛夫が叫んだので、フォームは俄かに色めいた。 も一人の髯面の驛夫は、中に人のゐない改札口へ行つて、『來ましたよウ。』 と怒鳴つた。 濃い煙が、眩しい野末の青葉の上に見える。
二
凄じい地響をさせて突進して來た列車が停ると、信吾は手づから二等室の
乎
其一
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鳥影 - 情報
青空情報
底本:「石川啄木作品集 第三巻」昭和出版社
1970(昭和45)年11月20日発行
初出:「東京毎日新聞」
1908(明治41)年11月1日〜12月30日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「坂」と「阪」、「昵」と「眤」、「回」と「囘」、「鼓」と「皷」、「廻」と「」の混在は底本通りです。
※初出時の表題は「鳥影(てうえい)」です。
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2007年1月16日作成
2014年8月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
青空文庫:鳥影