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スリーピー・ホローの伝説 故ディードリッヒ・ニッカボッカーの遺稿より

原題:THE LEGEND OF SLEEPY HOLLOW

著者:ワシントン・アーヴィング Washington Irving

スリーピー・ホローのでんせつ

文字数:31,817 底本発行年:1957
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序章-章なし

そこは心地よいまどろみの国。

夢は半ばとじた眼の前にゆれ、

きらめく楼閣は流れる雲間にうかび、

雲はたえず夏空に照りはえていた。

――倦怠けんたいの城

ハドソン河の河幅がひろがり、むかしオランダ人の航海者がタッパン・ジーと名づけていたところでは、彼らは用心していつでも帆をちぢめ、航海者の守り、聖ニコラスに加護をねがいながら、横断したものだ。 そこの東側の岸にくいこんでいる広い入江の奥に、小さな市場か田舎の港といったような町があり、ある人たちはグリーンズバラと呼んでいるが、本来はタリー・タウン(ぶらつき町)という名が正しく、また普通にはその名で知られている。 聞くところによれば、この名は、そのむかしこの近隣の女房たちがつけたもので、市場のひらかれる日に亭主連が村の居酒屋のあたりをぶらついてはなれない頑固な癖があったからだという。 それはともかくとして、わたしはこの事実の真偽のほどはうけあわない。 ただ一応そのことを述べて、正確と厳正を期そうというわけである。 この村からさほど遠くない、おそらく二マイルほどはなれた高い丘に、小さな渓谷、というよりはむしろ窪地くぼちというべきところがあるが、そこは世の中でいちばん静かな場所である。 小川が滑るように流れそのせせらぎは人を眠りにいざない、ときたまうずらが鳴いたり、啄木鳥きつつきの木をたたく音が聞えるが、あたりにみなぎる静寂を破る響はそれくらいのものだ。

思いおこしてみると、わたしがまだ少年のころはじめて栗鼠射りすうちで手柄をたてたのは、この渓谷の片側に茂っている高い胡桃くるみの木の林だった。 わたしがその林のなかにはいりこんだのはちょうどひるどきで、自然はことのほか静かで、わたしは自分の銃のとどろく音にもおどろいたものだ。 銃声はあたりの日曜日のような静けさを破り、こだまとなって尾をひき、怒ったように鳴りひびくのだった。 世の中の騒がしさから逃れ、わずらわしいことばかり多かった人生の余暇を静かに夢みながら暮すことができる隠居所をもとめるならば、この小さな渓谷にまさるところは知らない。

このあたりには、ものういような静けさがただよっているし、またその住民はむかしのオランダ移住民の子孫だが一風変った気質をもっているので、このさびしい谷は長いあいだスリーピー・ホロー(まどろみの窪)という名で知られていた。 そして、そこの百姓息子は、この近在のどこへ行ってもスリーピー・ホローの若衆と呼ばれていた。 眠気をさそう夢のような力がこのあたりをおおっており、大気の中にさえ立ちこめているようだった。 移住のはじまったころ、ドイツのある偉い祈祷きとう医師がこの場所に魔法をかけたのだというものもあるが、またあるものは、ヘンドリック・ハドソン船長がこの土地を発見するよりも前に、インディアンの老酋長ろうしゅうちょうで、種族の予言者か妖術師ようじゅつしであった男が、ここで祈祷をおこなったのだとも言っている。 たしかに、この場所にはいまだになにか魔力がいていて、それが善良なひとびとの心にのろいをかけ、そのおかげで彼らはいつでも幻想にふけりながらうろついているのである。 彼らは、ありとあらゆるふしぎな信心に夢中になり、夢幻の境に遊んだり、幻想におちいったりするし、しばしば奇怪なものを見たり、虚空こくうに音楽や人声を聞くこともある。 近隣一帯には伝説は豊富だし、幽霊のでる場所も多いし、うす暗い時刻につきものの迷信もあまたある。 流星がとぶのも、隕石いんせきがひらめくのも、この谷間では国じゅうのどこよりも頻繁だし、悪夢の魔女は九人の供をひきつれて、ここで跳びはねるのが好きらしい。

しかし、この妖術をかけられた地方につきまとう主領の精霊で、空中の魔力の総大将とおぼしいのは、首の無い騎士の亡霊である。 ある人たちのいうのには、これはヘッセからアメリカに渡った騎兵の幽霊であり、独立戦争のとき、どこかの小ぜりあいで、大砲の弾丸に頭をうちとばされたもので、ときたま村の人たちが見かけるときには、夜のやみのなかを疾走し、あたかも風の翼に乗っているようだということだ。 その亡霊のあらわれるところは、この谷間だけに限らず、ときには近所の街道にも及び、特に、そこから遠くないある教会の付近にはよくあらわれるのだ。 じっさい、この近傍のもっとも信頼すべき歴史家たちのなかには、この亡霊についてのうわさを集めたものがあり、彼らが比較検討したうえで言明するところでは、この騎士の死体はこの教会の墓地に埋葬されているが、その亡霊は夜な夜なもとの戦場に馬を駆り、頭をさがすのである。 亡霊が夜半の疾風のように速くこの窪地を通り去るのは、刻限におくれたために、大いそぎで夜明け前に墓場へ帰ろうとしているのだということだ。

これがこの伝説的な迷信の大意であるが、この迷信が材料になって、この幽霊が出る地方にはいくたのふしぎな物語ができあがった。 この亡霊はどの家の炉ばたでも、「スリーピー・ホローの首なし騎士」という名で知られている。

ふしぎなことに、さきほど述べた夢想におちいる傾向は、この谷間に生れつき住んでいる人だけでなく、しばらくそこに住む人も知らず知らずのうちにみな取りつかれるのである。 ひとびとが、この眠たげな地域に入る前にいかにはっきり目をさましていたとしても、間もなくかならず空中の魔力を吸いこんで、空想的になり、夢を見たり、幻影を見たりするようになるのだ。

わたしはこの平和な場所にあらゆる讃美さんびの言葉をおしまない。 それは、大ニューヨーク州の奥深く、あちらこちらにあるオランダ人の住む辺鄙へんぴな渓谷のなかにあり、ここでは人口も風俗習慣もかわらないのだ。 休むことを知らないアメリカのほかのところでは、移住民や種々な改善が奔流のようにぞくぞく流れこみ、絶えず変化しているが、その大きな急流もこの渓谷にはまったく気づかれずに流れてゆくのだ。 そこは静かな水の片隅のようなもので、急流と境を接しているのに、わらくずや泡が静かにたゆたっていたり、あるいは、波止場にでもついたかのようにゆるやかに渦巻いていたりして、かたわらを流れてゆく急流に乱されないのにも似ている。 わたしがスリーピー・ホローの眠たげな森かげを歩いてから、もういくたの年月がたっているが、今もやはり、そのころと同じ樹木が茂っており、同じひとびとがその奥まったところにのんびり暮しているのではないかと思う。

この自然界の片隅に、アメリカの歴史がはじまったころ、というのは三十年ほど前のことだが、イカバッド・クレーンという名の見あげた人物が、付近の子供たちに勉強を教えるために、スリーピー・ホローに仮り住まいをしていた。

序章-章なし
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スリーピー・ホローの伝説 - 情報

スリーピー・ホローの伝説 故ディードリッヒ・ニッカボッカーの遺稿より

スリーピー・ホローのでんせつ こディードリッヒ・ニッカボッカーのいこうより

文字数 31,817文字

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底本 スケッチ・ブック

青空情報


底本:「スケッチ・ブック」新潮文庫、新潮社
   1957(昭和32)年5月20日発行
   2000(平成12)年2月20日33刷改版
入力:鈴木厚司
校正:砂場清隆
2011年8月30日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:スリーピー・ホローの伝説

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