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桜の樹の下には

著者:梶井基次郎

さくらのきのしたには - かじい もとじろう

文字数:1,730 底本発行年:1972
著者リスト:
著者梶井 基次郎
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序章-章なし

桜の樹の下には屍体したいが埋まっている!

これは信じていいことなんだよ。 何故なぜって、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。 俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。 しかしいま、やっとわかるときが来た。 桜の樹の下には屍体が埋まっている。 これは信じていいことだ。

どうして俺が毎晩家へ帰って来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、りに選ってちっぽけな薄っぺらいもの、安全剃刀の刃なんぞが、千里眼のように思い浮かんで来るのか――おまえはそれがわからないと言ったが――そして俺にもやはりそれがわからないのだが――それもこれもやっぱり同じようなことにちがいない。

いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。 それは、よく廻った独楽こまが完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱しゃくねつした生殖の幻覚させる後光のようなものだ。 それは人の心をたずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。

しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。 俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。 俺は反対に不安になり、憂鬱ゆううつになり、空虚な気持になった。 しかし、俺はいまやっとわかった。

おまえ、この爛漫らんまんと咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。 何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。

馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛ふらんしてうじが湧き、たまらなく臭い。 それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。 桜の根は貪婪どんらんたこのように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根をあつめて、その液体を吸っている。

何があんな花弁を作り、何があんなしべを作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。

――おまえは何をそう苦しそうな顔をしているのだ。 美しい透視術じゃないか。 俺はいまようやくひとみを据えて桜の花が見られるようになったのだ。 昨日、一昨日、俺を不安がらせた神秘から自由になったのだ。

二三日前、俺は、ここのたにへ下りて、石の上を伝い歩きしていた。 水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげろうがアフロディットのように生まれて来て、溪の空をめがけて舞い上がってゆくのが見えた。 おまえも知っているとおり、彼らはそこで美しい結婚をするのだ。 しばらく歩いていると、俺は変なものに出喰でくわした。 それは溪の水が乾いたかわらへ、小さい水溜を残している、その水のなかだった。 思いがけない石油を流したような光彩が、一面に浮いているのだ。 おまえはそれを何だったと思う。 それは何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体だったのだ。 隙間なく水の面を被っている、彼らのかさなりあったはねが、光にちぢれて油のような光彩を流しているのだ。 そこが、産卵を終わった彼らの墓場だったのだ。

俺はそれを見たとき、胸がかれるような気がした。 墓場をあばいて屍体をこのむ変質者のような残忍なよろこびを俺は味わった。

この溪間ではなにも俺をよろこばすものはない。 うぐいす四十雀しじゅうからも、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。

序章-章なし
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桜の樹の下には - 情報

桜の樹の下には

さくらのきのしたには

文字数 1,730文字

著者リスト:

底本 檸檬・ある心の風景 他二十編

青空情報


底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社
   1972(昭和47)年12月10日初版発行
   1974(昭和49)年第4刷発行
初出:「詩と詩論」
   1928(昭和3)年12月
※表題は底本では、「桜の樹(き)の下には」となっています。
※編集部による傍注は省略しました。
入力:j.utiyama
校正:earthian
1998年10月10日公開
2016年7月5日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:桜の樹の下には

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