学位について
著者:寺田寅彦
がくいについて - てらだ とらひこ
文字数:8,627 底本発行年:1950
「学位売買事件」というあまり
学位などというものがあるからこんな騒ぎがもち上がる。
だからそんなものを一切なくした方がよいという人がある。
これは
こんな事件が起るよりずっと以前から「博士濫造」という言葉が流行していた。 誰が云い出した言葉か知れないが、こういう言葉は誰かが言い出すときっと流行するという性質をはじめから具有した言葉である。 それは、既に博士である人達にとっても、また自分で博士になることに関心をもたない一般世人にとっても耳に入りやすい口触わりの好い言葉だからである。 ただ、これから学位を取ろうとしている少数の若い学者と、それらの人々の学位論文を審査すべき位置にある少数の先輩学者との耳には一つの警鐘の音のように聞こえる言葉である。
しかし、この
学位を受ける人の年ごとの数が大きいということだけでは少しも濫造の証拠にはならない。 何とならば、学術を真剣に研究する研究者の数が増加すれば、そのうちで相当立派な成績をあげて学位授与に十分な資格を具備する人の数も増加するのは数理的に当然のことだからである。 多数の研究者のうちで、何かしら一つの仕事に成功して学位を得る人の数が研究者全体の数に対する統計的比率を不変と仮定しても、研究者の総数がN倍になれば博士の数もN倍になる。 のみならず、競争が劇しくなるために研究者の努力が劇しくなればこの比率も増加しないとは限らない。 一方ではまた、審査する方が濫造の世評を顧慮して審査の標準を高め、上記の比率を低下させるようにするかも知れない。 しかし比率を半分に切り下げても、研究の数が四倍になれば、博士及第者の数は二倍になるのは明白な勘定であろう。
こういう風に考えてみると、博士濫造の呼び声の高くなるのは
審査委員が如何に私情ないしは私利のためにもせよ、学位授与の価値の全然ないような低能な著者の、全然無価値かあるいは間違った論文に及第点をつけることが出来ると想像する人があれば、それは学術的論文というものの本質に関する知識の全く欠如している人に相違ないであろう。
学術的論文というものは審査委員だけが内証でこっそり眼を通して、そっと金庫にしまうか焼き棄てるものではない。
ちゃんとどこかの公私の発表機関で発表して学界の批評を受け得る形式のものとしなければならないように規定されているのである。
それで、もしも審査に合格したある学位論文が、多くの学者の眼で見てなんらの価値がないものであったり、あるいは明白な
今度新聞で報ぜられた事件にしても事実は少しも知らないが、ただ問題となった学位論文が審査を及第通過している以上、その論文がともかくも学術上なんらかの価値あるものであり、少なくも全然無価値ではなく、全部が誤謬ではないであろうということはほとんど疑う余地のないことであろうと思われる。
さて、それほどに事柄が明白ならば、一体どうして、そんな不祥な問題が発生し得るか。
価値のあるものなら通過し、ないものは通過しないと決まっているのなら、私利私情などというものの入り込む余地はないではないかということになる。
正にその通りである。
それだのに実際上は事柄がその通り簡単にゆかないのは何故かというと、それは論文の「価値」というものの批判が非常に複雑困難なものであって、その批判の標準に千差万別があり、従って十人十色の批評者によって十人十色の標準が使用されるから、そこに批判の普遍性に穴があり、そこへ
ある学者甲が見ると相当な価値があり興味があると思われる一つの論文が、他の学者乙の眼から見るとさっぱり価値のない下らないものに見えることがあり、また反対に甲の眼には平凡あるいは無意味と映ずる論文が、乙の眼には非常に有益な創見を示すものとして光って見えることが可能であるのみならず、そういう実例も決して珍しくはないのである。
一体どうしてそんなことがあり得るか。
この疑問はただに学界以外の世人のみならず、多くの学者自身によっても発せられるであろうと想像する。
この疑問の解答が一般に知られていないということが、学位をめぐるあらゆる不都合な事件の発生の
科学の進歩に伴う研究領域の専門的分化は次第に甚だしくなる一方である。
それは止むを得ないことであり、またそういう分化の効能が顕著なものであるということについては今更にいうまでもないのであるが、この傾向に伴う一つの重大な弊は、学者が自分の専門に属する一つの学全体としての概景を見失ってしまい、従って自分の専門と他の専門との間の関係についての鳥瞰的認識を欠くようになるということである。
それだけならば、まだしもであるが、困ったことには、各自が専門とする部門が