一
十一月某日 ( それのひ ) 、自分は朝から書斎にこもって書見をしていた。
その書はウォーズウォルス詩集である、この詩集一冊は自分に取りて容易ならぬ関係があるので。
これを手に入れたはすでに八年前のこと、忘れもせぬ九月二十一日の夜 ( よ ) であった。
ああ八年の歳月! 憶 ( おも ) えば夢のようである。
ことにこの一、二年はこの詩集すら、わずかに二、三十巻しかないわが蔵書中にあってもはなはだしく冷遇せられ、架上最も塵 ( ちり ) 深き一隅 ( いちぐう ) に放擲 ( ほうてき ) せられていた。
否 ( いな ) 、一月に一度ぐらいは引き出されて瞥見 ( べっけん ) された事もあったろう、しかし要するに瞥見たるに過ぎない、かつて自分の眼光を射て心霊の底深く徹した一句一節は空 ( むな ) しく赤い線 ( すじ ) 青い棒で標点 ( しるしづ ) けられてあるばかりもはや自分を動かす力は消え果てていた。
今さらその理由を事々 ( ことごと ) しく自問し自答するにも当たるまい、こんな事は初めからわかっているはずである、『マイケル』を読んでリウクの命運のために三行の涙をそそいだ自分はいつしかまたリウクを誘うた浮世の力に誘われたのだ。
そして今も今、いと誇り顔に「われは老熟せり」と自ら許している。
アア老熟! 別に不思議はない、
“Man descends into the Vale of years.”
『人は歳月の谷間へと下る』
という一句が『エキスカルション』第九編中にあって自分はこれに太く青い線 ( すじ ) を引いてるではないか。
どうせこれが人の運命 ( おさだまり ) だろう、その証拠には自分の友人の中でも随分自分と同じく、自然を愛し、自然を友として高き感情の中に住んでいた者もあったが、今では立派な実際家になって、他人 ( ひと ) のうわさをすれば必ず『彼奴 ( きゃつ ) は常識 ( コンモンセンス ) が乏しい』とか、『あれは事務家だえらいところがある』など評し、以前 ( もと ) の話が出ると赤い顔をして、『あの時はお互いにまだ若かった』と頭をかくではないか。
自分がウォーズウォルスを見捨てたのではない、ウォーズウォルスが自分を見捨てたのだ。
たまさか引き出して見たところで何がわかろう。
ウォーズウォルスもこういう事務家や老熟先生にわかるようには歌わなかったに違いない。
ところで自分免許のこの老熟先生も実はさすがにまるきり老熟し得ないと見えて、実際界の事がうまく行かず、このごろは家にばかり引きこもっていて多く世間と交わらない。
その結果でもあろうかウォーズウォルス詩集までが一週間に一、二度ぐらいは机の上に置かれるようになった。
さて十一月某日 ( それのひ ) 、自分は朝から書斎にこもって書見をしていた、とあらためて書き出す。
二
昨日 ( きのう ) も今日 ( きょう ) も秋の日はよく晴れて、げに小春 ( こはる ) の天気、仕事するにも、散策を試みるにも、また書を読むにも申し分ない気候である。
ウォーズウォルスのいわゆる
『一年の熱去り、気は水のごとくに澄み、天は鏡のごとくに磨 ( みが ) かれ、光と陰といよいよ明らかにして、いよいよ映照せらるる時』
である、気が晴ればれする、うちにもどこか引き緊 ( し ) まるところがあって心が浮わつかない。
断行するにも沈思するにも精いっぱいできる。
感情も意志も知力もその能を尽くすべき時である。
冬はいじけ 春はだらけ 夏はやせる人でも、この季節ばかりは健康と精力とを自覚するだろう。
それで季節が季節だけに自分のウォーズウォルス詩集に対する心持ちがやや変わって来た、少しはしんみり と詩の旨を味わうことができるようである。
自分は南向きの窓の下で玻璃 ( ガラス ) 越しの日光を避 ( よ ) けながら、ソンネットの二、三編も読んだか。
そして“Line Composed a few miles above Tintern Abbey” の雄編に移った。
この詩の意味は大略左のごとくである。
五年は経過せり 。
しかしてわれ今再びこの河畔 ( かはん ) に立ってその泉流の咽 ( むせ ) ぶを聴 ( き ) き、その危厳のそびゆるを仰ぎ、その蒼天 ( そうてん ) の地に垂 ( た ) れて静かなるを観 ( み ) るなり。
日は来たりぬ、われ再びこの暗く繁 ( しげ ) れる無花果 ( いちじく ) の樹陰 ( こかげ ) に座して、かの田園を望み、かの果樹園を望むの日は再び来たりぬ。
われ今再びかの列樹 ( なみき ) を見るなり。
われ今再びかの牧場を見るなり。
緑草直ちに門戸に接するを見、樹林の間よりは青煙閑 ( しず ) かに巻きて空にのぼるを見る、樵夫 ( しょうふ ) の住む所、はた隠者の独座して炉に対するところか。
これらの美なる風光はわれにとりて、過去五年の間、かの盲者における景色のごときものにてはあらざりき。
一室に孤座する時 、都府の熱閙場裡 (ねっとうじょうり )にあるの日 、われこの風光に負うところありたり 、心屈し体 倦 ( う ) むの時に当たりて 、わが血わが心はこれらを 懐 ( おも ) うごとにいかに甘き美感を 享 ( う ) けて躍りたるぞ 、さらに負うところの大なる者は 、われこの不可思議なる天地の秘義に悩まさるるに当たり 、これらの風光を憶 (おも )うことによりて 、その圧力を 支 ( ささ ) え得たることなり 。