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外科室

著者:泉鏡花

げかしつ - いずみ きょうか

文字数:7,251 底本発行年:1971
著者リスト:
著者泉 鏡花
底本: 高野聖
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実は好奇心のゆえに、しかれども予は予が画師えしたるを利器として、ともかくも口実を設けつつ、予と兄弟もただならざる医学士高峰をしいて、それの日東京府下のある病院において、かれとうを下すべき、貴船きふね伯爵夫人の手術をば予をして見せしむることを余儀なくしたり。

その日午前九時過ぐるころ家をでて病院に腕車わんしゃを飛ばしつ。 直ちに外科室のかたおもむくとき、むこうより戸を排してすらすらと出で来たれる華族の小間使とも見ゆる容目みめよき婦人おんな二、三人と、廊下の半ばに行き違えり。

見れば渠らの間には、被布着たる一個いっこ七、八歳の娘を擁しつ、見送るほどに見えずなれり。 これのみならず玄関より外科室、外科室より二階なる病室に通うあいだの長き廊下には、フロックコート着たる紳士、制服着けたる武官、あるいは羽織はかま扮装いでたちの人物、その他、貴婦人令嬢等いずれもただならず気高きが、あなたに行き違い、こなたに落ち合い、あるいは歩し、あるいは停し、往復あたかも織るがごとし。 予は今門前において見たる数台すだいの馬車に思い合わせて、ひそかに心にうなずけり。 渠らのある者は沈痛に、ある者は憂慮きづかわしげに、はたある者はあわただしげに、いずれも顔色穏やかならで、せわしげなる小刻みのくつの音、草履ぞうりの響き、一種寂寞せきばくたる病院の高き天井と、広き建具と、長き廊下との間にて、異様の跫音きょうおんを響かしつつ、うたた陰惨の趣をなせり。

予はしばらくして外科室に入りぬ。

ときに予と相目して、脣辺しんぺんに微笑を浮かべたる医学士は、両手を組みてややあおむけに椅子いすれり。 今にはじめぬことながら、ほとんどわが国の上流社会全体の喜憂に関すべき、この大いなる責任をになえる身の、あたかも晩餐ばんさんむしろに望みたるごとく、平然としてひややかなること、おそらく渠のごときはまれなるべし。 助手三人と、立ち会いの医博士一人と、別に赤十字の看護婦五名あり。 看護婦その者にして、胸に勲章帯びたるも見受けたるが、あるやんごとなきあたりより特に下したまえるもありぞと思わる。 他に女性にょしょうとてはあらざりし。 なにがし公と、なにがし侯と、なにがし伯と、みな立ち会いの親族なり。 しかして一種形容すべからざる面色おももちにて、愁然として立ちたるこそ、病者の夫の伯爵なれ。

室内のこの人々にみまもられ、室外のあのかたがたに憂慮きづかわれて、ちりをも数うべく、明るくして、しかもなんとなくすさまじく侵すべからざるごとき観あるところの外科室の中央に据えられたる、手術台なる伯爵夫人は、純潔なる白衣びゃくえまといて、死骸しがいのごとく横たわれる、顔の色あくまで白く、鼻高く、おとがい細りて手足は綾羅りょうらにだも堪えざるべし。 くちびるの色少しくせたるに、玉のごとき前歯かすかに見え、は固く閉ざしたるが、まゆは思いなしかひそみて見られつ。 わずかにつかねたる頭髪は、ふさふさとまくらに乱れて、台の上にこぼれたり。

そのかよわげに、かつ気高く、清く、とうとく、うるわしき病者のおもかげを一目見るより、予は慄然りつぜんとして寒さを感じぬ。

医学士はと、ふと見れば、渠は露ほどの感情をも動かしおらざるもののごとく、虚心に平然たるさまあらわれて、椅子にすわりたるは室内にただ渠のみなり。 そのいたく落ち着きたる、これを頼もしとわば謂え、伯爵夫人のしかき容体を見たる予が眼よりはむしろ心憎きばかりなりしなり。

おりからしとやかに戸を排して、静かにここに入り来たれるは、先刻さきに廊下にて行き逢いたりし三人の腰元の中に、ひときわ目立ちし婦人おんななり。

そと貴船伯に打ち向かいて、沈みたる音調もて、

御前ごぜん姫様ひいさまはようようお泣きみあそばして、別室におとなしゅういらっしゃいます」

伯はものいわでうなずけり。

看護婦はわが医学士の前に進みて、

「それでは、あなた」

「よろしい」

と一言答えたる医学士の声は、このとき少しく震いを帯びてぞ予が耳には達したる。 その顔色はいかにしけん、にわかに少しく変わりたり。

さてはいかなる医学士も、驚破すわという場合に望みては、さすがに懸念のなからんやと、予は同情をひょうしたりき。

看護婦は医学士の旨を領してのち、かの腰元に立ち向かいて、

「もう、なんですから、あのことを、ちょっと、あなたから」

腰元はその意を得て、手術台にり寄りつ、優にひざのあたりまで両手を下げて、しとやかに立礼し、

夫人おくさま、ただいま、お薬を差し上げます。 どうぞそれを、お聞きあそばして、いろはでも、数字でも、おかぞえあそばしますように」

伯爵夫人は答なし。

腰元は恐る恐る繰り返して、

「お聞き済みでございましょうか」

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外科室 - 情報

外科室

げかしつ

文字数 7,251文字

著者リスト:
著者泉 鏡花

底本 高野聖

青空情報


底本:「高野聖」角川文庫、角川書店
   1971(昭和46)年4月20日改版初版発行
   1979(昭和54)年11月30日改版第14刷発行
入力:今中一時
校正:浜野 智
1998年8月6日作成
2012年10月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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