序章-章なし
雨を含んだ風がさっと吹いて、磯の香が満ちている――今日は二時頃から、ずッぷりと、一降り降ったあとだから、この雲の累った空合では、季節で蒸暑かりそうな処を、身に沁みるほどに薄寒い。
……
木の葉をこぼれる雫も冷い。
……糠雨がまだ降っていようも知れぬ。
時々ぽつりと来るのは――樹立は暗いほどだけれど、その雫ばかりではなさそうで、鎮守の明神の石段は、わくら葉の散ったのが、一つ一つ皆蟹になりそうに見えるまで、濡々と森の梢を潜って、直線に高い。
その途中、処々夏草の茂りに蔽われたのに、雲の影が映って暗い。
縦横に道は通ったが、段の下は、まだ苗代にならない水溜りの田と、荒れた畠だから――農屋漁宿、なお言えば商家の町も遠くはないが、ざわめく風の間には、海の音もおどろに寂しく響いている。
よく言う事だが、四辺が渺として、底冷い靄に包まれて、人影も見えず、これなりに、やがて、逢魔が時になろうとする。
町屋の屋根に隠れつつ、巽に展けて海がある。
その反対の、山裾の窪に当る、石段の左の端に、べたりと附着いて、溝鼠が這上ったように、ぼろを膚に、笠も被らず、一本杖の細いのに、しがみつくように縋った。
杖の尖が、肩を抽いて、頭の上へ突出ている、うしろ向のその肩が、びくびくと、震え、震え、脊丈は三尺にも足りまい。
小児だか、侏儒だか、小男だか。
ただ船虫の影の拡ったほどのものが、靄に沁み出て、一段、一段と這上る。
……
しょぼけ返って、蠢くたびに、啾々と陰気に幽な音がする。
腐れた肺が呼吸に鳴るのか――ぐしょ濡れで裾から雫が垂れるから、骨を絞る響であろう――傘の古骨が風に軋むように、啾々と不気味に聞こえる。
「しいッ、」
「やあ、」
しッ、しッ、しッ。
曳声を揚げて……こっちは陽気だ。
手頃な丸太棒を差荷いに、漁夫の、半裸体の、がッしりした壮佼が二人、真中に一尾の大魚を釣るして来た。
魚頭を鈎縄で、尾はほとんど地摺である。
しかも、もりで撃った生々しい裂傷の、肉のはぜて、真向、腮、鰭の下から、たらたらと流るる鮮血が、雨路に滴って、草に赤い。
私は話の中のこの魚を写出すのに、出来ることなら小さな鯨と言いたかった。
大鮪か、鮫、鱶でないと、ちょっとその巨大さと凄じさが、真に迫らない気がする。
――ほかに鮟鱇がある、それだと、ただその腹の膨れたのを観るに過ぎぬ。
実は石投魚である。
大温にして小毒あり、というにつけても、普通、私どもの目に触れる事がないけれども、ここに担いだのは五尺に余った、重量、二十貫に満ちた、逞しい人間ほどはあろう。
荒海の巌礁に棲み、鱗鋭く、面顰んで、鰭が硬い。
と見ると鯱に似て、彼が城の天守に金銀を鎧った諸侯なるに対して、これは赤合羽を絡った下郎が、蒼黒い魚身を、血に底光りしつつ、ずしずしと揺られていた。
かばかりの大石投魚の、さて価値といえば、両を出ない。
七八十銭に過ぎないことを、あとで聞いてちと鬱いだほどである。
が、とにかく、これは問屋、市場へ運ぶのではなく、漁村なるわが町内の晩のお菜に――荒磯に横づけで、ぐわッぐわッと、自棄に煙を吐く艇から、手鈎で崖肋腹へ引摺上げた中から、そのまま跣足で、磯の巌道を踏んで来たのであった。
まだ船底を踏占めるような、重い足取りで、田畝添いの脛を左右へ、草摺れに、だぶだぶと大魚を揺って、
「しいッ、」
「やあ、」
しっ、しっ、しっ。
この血だらけの魚の現世の状に似ず、梅雨の日暮の森に掛って、青瑪瑙を畳んで高い、石段下を、横に、漁夫と魚で一列になった。
すぐここには見えない、木の鳥居は、海から吹抜けの風を厭ってか、窪地でたちまち氾濫れるらしい水場のせいか、一条やや広い畝を隔てた、町の裏通りを――横に通った、正面と、撞木に打着った真中に立っている。