• URLをコピーしました!

牛肉と馬鈴薯

著者:国木田独歩

ぎゅうにくとばれいしょ - くにきだ どっぽ

文字数:15,861 底本発行年:1970
著者リスト:
著者:国木田 独歩
0
0
0


序章-章なし

明治倶楽部(クラブ)とて芝区桜田本郷町のお堀辺(ほりばた)に西洋作(づくり)の余り立派ではないが、それでも可なりの建物があった、建物は今でもある、しかし持主が代って、今では明治倶楽部その者はなくなって了(しま)った。

この倶楽部が未(ま)だ繁盛していた頃のことである、或(ある)年の冬の夜、珍らしくも二階の食堂に燈火(あかり)が点(つ)いていて、時々(おりおり)高く笑う声が外面(そと)に漏れていた。 元来(いったい)この倶楽部は夜分人の集っていることは少ないので、ストーブの煙は平常(いつ)も昼間ばかり立ちのぼっているのである。

然(しか)るに八時は先刻(さっき)打っても人々は未だなかなか散じそうな様子も見えない。 人力車(くるま)が六台玄関の横に並んでいたが、車夫どもは皆な勝手の方で例の一六勝負最中らしい。

すると一人の男、外套(がいとう)の襟(えり)を立てて中折帽(なかおれぼう)を面深(まぶか)に被(かぶ)ったのが、真暗(まっくら)な中からひょっくり現われて、いきなり手荒く呼鈴(よびりん)を押した。

内から戸が開(あ)くと、

「竹内君は来てお出(いで)ですかね」と低い声の沈重(おちつ)いた調子で訊(たず)ねた。

「ハア、お出で御座います、貴様(あなた)は?」と片眼の細顔の、和服を着た受付が丁寧に言った。

「これを」と出(いだ)した名刺には五号活字で岡本誠夫(せいふ)としてあるばかり、何の肩書もない。 受付はそれを受取り急いで二階に上って去(い)ったが間もなく降りて来て

「どうぞ此方(こちら)へ」と案内した、導かれて二階へ上ると、煖炉(ストーブ)を熾(さかん)に燃(た)いていたので、ムッとする程温(あった)かい。 煖炉(ストーブ)の前には三人、他の三人は少し離れて椅子に寄っている。 傍(かたわら)の卓子(テーブル)にウイスキーの壜(びん)が上(のっ)ていてこっぷの飲み干したるもあり、注(つ)いだままのもあり、人々は可(い)い加減に酒が廻(ま)わっていたのである。

岡本の姿を見るや竹内は起(た)って、元気よく

「まアこれへ掛け給え」と一(ひとつ)の椅子をすすめた。

岡本は容易に坐に就(つ)かない。 見廻すとその中(うち)の五人は兼て一面識位はある人であるが、一人、色の白い中肉の品の可(よ)い紳士は未だ見識(みし)らぬ人である。 竹内はそれと気がつき、

「ウン貴様(あなた)は未だこの方を御存知ないだろう、紹介しましょう、この方は上村君(かみむらさん)と言って北海道炭鉱会社の社員の方です、上村君、この方は僕の極く旧(ふる)い朋友(ともだち)で岡本君……」

と未だ言い了(おわ)らぬに上村と呼ばれし紳士は快活な調子で

「ヤ、初めて……お書きになった物は常に拝見していますので……今後御懇意に……」

岡本は唯(た)だ「どうかお心安く」と言ったぎり黙って了った。 そして椅子に倚(よ)った。

「サアその先を……」と綿貫(わたぬき)という背の低い、真黒の頬髭(ほおひげ)を生(はや)している紳士が言った。

「そうだ! 上村君、それから?」と井山(いやま)という眼のしょぼしょぼした頭髪(あたまのけ)の薄い、痩方(やせがた)の紳士が促した。

「イヤ岡本君が見えたから急に行(や)りにくくなったハハハハ」と炭鉱会社の紳士は少し羞(は)にかんだような笑方をした。

「何ですか?」

岡本は竹内に問うた。

「イヤ至極面白いんだ、何かの話の具合で我々の人生観を話すことになってね、まア聴(き)いて居給え名論卓説、滾々(こんこん)として尽きずだから」

「ナニ最早(もう)大概吐き尽したんですよ、貴様(あなた)は我々俗物党と違がって真物(ほんもの)なんだから、幸(さいわい)貴様(あなた)のを聞きましょう、ね諸君!」

と上村は逃げかけた。

「いけないいけない、先(ま)ず君の説を終(お)え給え!」

「是非承わりたいものです」と岡本はウイスキーを一杯、下にも置かないで飲み干した。

「僕のは岡本君(さん)の説とは恐らく正反対だろうと思うんでね、要之(つまり)、理想と実際は一致しない、到底一致しない……」

「ヒヤヒヤ」と井山が調子を取った。

「果して一致しないとならば、理想に従うよりも実際に服するのが僕の理想だというのです」

「ただそれだけですか」と岡本は第二の杯を手にして唸(うな)るように言った。

「だってねエ、理想は喰(た)べられませんものを!」と言った上村の顔は兎(うさぎ)のようであった。

序章-章なし
━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

牛肉と馬鈴薯 - 情報

牛肉と馬鈴薯

ぎゅうにくとばれいしょ

文字数 15,861文字

著者リスト:

底本 牛肉と馬鈴薯・酒中日記

青空情報


底本:新潮文庫『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』
   1970(昭和45)年5月30日発行
入力:八木正三
校正:LUNA CAT
1998年5月23日公開
2011年5月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:牛肉と馬鈴薯

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!