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思ひ出 抒情小曲集

著者:北原白秋

おもいで - きたはら はくしゅう

文字数:50,271 底本発行年:1911
著者リスト:
著者北原 白秋
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序章-章なし

[#ページの左右中央]

この小さき抒情小曲集をそのかみのあえかなりしわが母上と、愛弟 Tinka John に贈る。

Tonka John.

[#改丁]

Pierrot の思い出の扉絵

[#改丁]

わが生ひたち

…………時は逝く、何時しらず柔らかに影してぞゆく、

時は逝く、赤き蒸汽の船腹の過ぎゆくごとく。

(過ぎし日第二十)

時は過ぎた。 さうして温かい苅麥かりむぎのほめきに、赤いくびの螢に、或は青いとんぼの眼に、黒猫の美くしい毛色に、謂れなき不可思議の愛着を寄せた私の幼年時代も何時の間にか慕はしい「思ひ出」の哀歡となつてゆく。

捉へがたい感覺の記憶は今日もなほ私の心をいらだたしめ、恐れしめ、歎かしめ、苦しませる。 この小さな抒情小曲集に歌はれた私の十五歳以前の Life はいかにも幼稚な柔順おとなしい、然し飾氣のない、時としては淫婦の手を恐るゝ赤い石竹の花のやうに無智であつた。 さうして驚き易い私の皮膚と靈はつねに螽斯きりぎりすの薄い四肢のやうに新しい發見の前に喜び顫へた。 兎に角私は感じた。 さうして生れたまゝの水々しい五官の感觸が私にある「神秘」を傅へ、ある「懷疑」の萠芽を微かながらも泡立たせたことは事實である。 さうしてまだ知らぬ人生の「秘密」を知らうとする幼年の本能は常に銀箔の光を放つ水面にかのついついと跳ねてゆく水すましの番ひにも震※わなな[#「りっしんべん+粟」、U+619F、X-8]いたのである。

尤も、私は過去追憶にのみきんとするものではない。 私はまたこの現在の生活に不滿足な爲めに美くしい過ぎし日の世界に、懷かしい靈の避難所を見出さうとする弱い心からかういふ詩作にのみ耽つてゐるのでもない。 「思ひ出」は私の藝術の半面である。 私は同時に「邪宗門」の象徴詩を公にし、今はまた「東京景物詩」の製作にも從ふてゐる。 從てその一面をのみ觀て、輕々にその傾向なり詩風なりを速斷せらるゝほど作者に取つて苦痛なことはない。 如何なる人生の姿にも矛盾はある。 影の形に添ふごとく、開き盡した牡丹花のかげに昨日の薄あかりのなほ顫へてやまぬやうに、現實に執する私の心は時として一碗の査古律ちよこれーとに蒸し熱い郷土のにほひを嗅ぎ、幽かな※(「さんずい+自」、第3水準1-86-66)芙藍さふらんの凋れにある日の未練を殘す。 見果てぬ夢の歎きは目に見えぬ銀の鎖の微かに過去と現在とを繼いで慄くやうに、つねに忙たゞしい生活の耳元に啜り泣く。 さはいへ此集の第三章に收めた「おもひで」二十篇の追憶體は寧ろ「邪宗門」以前の詩風であつた。 まだ現實の痛苦にも思ひ到らず、ただ羅漫的な氣分の、何となき追憶に耽つたひとしきりの夢に過ぎなかつた。 さりながら「生の芽生」及「Tonka John の悲哀」に輯めた新作の幾十篇には幼年を幼年として、自分の感覺に抵觸し得た現實の生そのものを拙ないながらも官能的に描き出さうと欲した。 從つて用ゐた語彙なり手法なりもやはり現在風にして試みたのである。 畢竟自叙傳として見て欲しい一種の感覺史なり性慾史なりに外ならぬ。 實際私は過去を全く今の自分から遊離したものとして追慕するよりも、充實した現在生活の根底を更に力強く印象せしめんが爲に、兎に角過去といふわが第一の烙印を自分で力ある額の上に烙きつけようと欲したのである。 とはいふものゝ、私はなほこの小さな詩集の限りある紙面に於て企畫した事の十分の一も描寫し得なかつたのを悲しむ。 幼ない昔は兎に角秘密多き少年時代の感情生活はまだ/″\複雜であり神經的である。 私はなほ何らかの新らしい形式の上にその切ないほど怪しかつた感覺の負債が充分に償ひ得べき何らかの新らしい機會の來らんことを待つ。

「斷章」の六十一篇は「邪宗門」と同時代の小曲であつてその以後の新風ではない。 それは恰度強い印象派の色彩のかげに微かなテレピン油の潤りのさまよふてゐるやうに彼の集のかげに今なほ見出されずして顫へてゐたものである。 私はかの私の抒情の「歌」とゝもにこの「斷章」のやうな仄かな藝術品が「邪宗門」や「東京景物詩」やその他の異なつた象徴詩の間にも、なほ純なるわかき日の悲しみを頼りなく伴奏しつゝあつた事をせめて首肯して欲しいのである。

序章-章なし
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思ひ出 - 情報

思ひ出 抒情小曲集

おもいで じょじょうしょうきょくしゅう

文字数 50,271文字

著者リスト:
著者北原 白秋

底本 柳河版 思ひ出

親本 おもひで 抒情小曲集

青空情報


底本:「柳河版 思ひ出」御花
   1967(昭和42)年6月1日初版発行
   1978(昭和53)年2月25日6版
底本の親本:「おもひで 抒情小曲集」東雲堂書店
   1911(明治44)年6月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2002年1月31日公開
2014年5月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:思ひ出

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