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ヴィヨンの妻

著者:太宰治

ヴィヨンのつま - だざい おさむ

文字数:20,298 底本発行年:1950
著者リスト:
著者太宰 治
底本: ヴィヨンの妻
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あわただしく、玄関をあける音が聞えて、私はその音で、眼をさましましたが、それは泥酔の夫の、深夜の帰宅にきまっているのでございますから、そのまま黙って寝ていました。

夫は、隣の部屋に電気をつけ、はあっはあっ、とすさまじく荒い呼吸をしながら、机の引出しや本箱の引出しをあけてきまわし、何やら捜している様子でしたが、やがて、どたりと畳に腰をおろして坐ったような物音が聞えまして、あとはただ、はあっはあっという荒い呼吸ばかりで、何をしている事やら、私が寝たまま、

「おかえりなさいまし。 ごはんは、おすみですか? お戸棚に、おむすびがございますけど」

と申しますと、

「や、ありがとう」といつになく優しい返事をいたしまして、「坊やはどうです。 熱は、まだありますか?」とたずねます。

これも珍らしい事でございました。 坊やは、来年は四つになるのですが、栄養不足のせいか、または夫の酒毒のせいか、病毒のせいか、よその二つの子供よりも小さいくらいで、歩く足許あしもとさえおぼつかなく、言葉もウマウマとか、イヤイヤとかを言えるくらいが関の山で、脳が悪いのではないかとも思われ、私はこの子を銭湯に連れて行きはだかにして抱き上げて、あんまり小さく醜くせているので、さびしくなって、おおぜいの人の前で泣いてしまった事さえございました。 そうしてこの子は、しょっちゅう、おなかをこわしたり、熱を出したり、夫は殆ど家に落ちついている事は無く、子供の事など何と思っているのやら、坊やが熱を出しまして、と私が言っても、あ、そう、お医者に連れて行ったらいいでしょう、と言って、いそがしげに二重廻しを羽織ってどこかへ出掛けてしまいます。 お医者に連れて行きたくっても、お金も何も無いのですから、私は坊やに添寝して、坊やの頭を黙ってでてやっているより他は無いのでございます。

けれどもその夜はどういうわけか、いやに優しく、坊やの熱はどうだ、など珍らしくたずねて下さって、私はうれしいよりも、何だかおそろしい予感で、脊筋が寒くなりました。 何とも返辞の仕様が無く黙っていますと、それから、しばらくは、ただ、夫のはげしい呼吸ばかり聞えていましたが、

「ごめん下さい」

と、女のほそい声が玄関で致します。 私は、総身に冷水を浴びせられたように、ぞっとしました。

「ごめん下さい。 大谷おおたにさん」

こんどは、ちょっと鋭い語調でした。 同時に、玄関のあく音がして、

「大谷さん! いらっしゃるんでしょう?」

と、はっきり怒っている声で言うのが聞えました。

夫は、その時やっと玄関に出た様子で、

「なんだい」

と、ひどくおどおどしているような、まの抜けた返辞をいたしました。

「なんだいではありませんよ」と女は、声をひそめて言い、「こんな、ちゃんとしたお家もあるくせに、どろぼうを働くなんて、どうした事です。 ひとのわるい冗談はよして、あれを返して下さい。 でなければ、私はこれからすぐ警察に訴えます」

「何を言うんだ。 失敬な事を言うな。 ここは、お前たちの来るところでは無い。 帰れ! 帰らなければ、僕のほうからお前たちを訴えてやる」

その時、もうひとりの男の声が出ました。

「先生、いい度胸だね。 お前たちの来るところではない、とは出かした。 あきれてものが言えねえや。 他の事とは違う。 よその家の金を、あんた、冗談にも程度がありますよ。 いままでだって、私たち夫婦は、あんたのために、どれだけ苦労をさせられて来たか、わからねえのだ。

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ヴィヨンの妻 - 情報

ヴィヨンの妻

ヴィヨンのつま

文字数 20,298文字

著者リスト:
著者太宰 治

底本 ヴィヨンの妻

青空情報


底本:「ヴィヨンの妻」新潮文庫、新潮社
   1950(昭和25)年12月20日発行
   1985(昭和60)年10月30日63刷改版
入力:細渕紀子
校正:小浜真由美
1999年1月1日公開
2011年5月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:ヴィヨンの妻

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