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或る女 1(前編)

著者:有島武郎

あるおんな - ありしま たけお

文字数:149,162 底本発行年:1950
著者リスト:
著者有島 武郎
底本: 或る女 前編
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新橋しんばしを渡る時、発車を知らせる二番目のベルが、霧とまではいえない九月の朝の、けむった空気に包まれて聞こえて来た。 葉子ようこは平気でそれを聞いたが、車夫は宙を飛んだ。 そして車が、鶴屋つるやという町のかどの宿屋を曲がって、いつでも人馬の群がるあの共同井戸のあたりを駆けぬける時、停車場の入り口の大戸をしめようとする駅夫と争いながら、八がたしまりかかった戸の所に突っ立ってこっちを見まもっている青年の姿を見た。

「まあおそくなってすみませんでした事……まだ間に合いますかしら」

と葉子がいいながら階段をのぼると、青年は粗末な麦稈むぎわら帽子をちょっと脱いで、黙ったまま青い切符きっぷを渡した。

「おやなぜ一等になさらなかったの。 そうしないといけないわけがあるからかえてくださいましな」

といおうとしたけれども、火がつくばかりに駅夫がせき立てるので、葉子は黙ったまま青年とならんで小刻みな足どりで、たった一つだけあいている改札口へと急いだ。 改札はこの二人ふたりの乗客を苦々にがにがしげに見やりながら、左手を延ばして待っていた。 二人がてんでんに切符を出そうとする時、

「若奥様、これをお忘れになりました」

といいながら、羽被はっぴの紺のにおいの高くするさっきの車夫が、薄い大柄おおがらなセルの膝掛ひざかけを肩にかけたままあわてたように追いかけて来て、オリーヴ色の絹ハンケチに包んだ小さな物を渡そうとした。

「早く早く、早くしないと出っちまいますよ」改札がたまらなくなって癇癪声かんしゃくごえをふり立てた。

青年の前で「若奥様」と呼ばれたのと、改札ががみがみどなり立てたので、針のように鋭い神経はすぐ彼女をあまのじゃくにした。 葉子は今まで急ぎ気味ぎみであった歩みをぴったり止めてしまって、落ち付いた顔で、車夫のほうに向きなおった。

「そう御苦労よ。 家に帰ったらね、きょうは帰りがおそくなるかもしれませんから、お嬢さんたちだけで校友会にいらっしゃいってそういっておくれ。 それから横浜よこはま近江屋おうみや――西洋小間物屋こまものやの近江屋が来たら、きょうこっちから出かけたからっていうようにってね」

車夫はきょときょとと改札と葉子とをかたみがわりに見やりながら、自分が汽車にでも乗りおくれるようにあわてていた。 改札の顔はだんだん険しくなって、あわや通路をしめてしまおうとした時、葉子はするするとそのほうに近よって、

「どうもすみませんでした事」

といって切符をさし出しながら、改札の目の先で花が咲いたようにほほえんで見せた。 改札はばかになったような顔つきをしながら、それでもおめおめと切符にあなを入れた。

プラットフォームでは、駅員も見送り人も、立っている限りの人々は二人ふたりのほうに目を向けていた。 それを全く気づきもしないような物腰ものごしで、葉子は親しげに青年と肩を並べて、しずしずと歩きながら、車夫の届けた包み物の中には何があるかあててみろとか、横浜のように自分の心をひく町はないとか、切符を一緒にしまっておいてくれろとかいって、音楽者のようにデリケートなその指先で、わざとらしく幾度か青年の手に触れる機会を求めた。 列車の中からはある限りの顔が二人を見迎え見送るので、青年が物慣れない処女しょじょのようにはにかんで、しかも自分ながら自分をおこっているのが葉子にはおもしろくながめやられた。

いちばん近い二等車の昇降口の所に立っていた車掌は右の手をポッケットに突っ込んで、くつ爪先つまさきで待ちどおしそうに敷き石をたたいていたが、葉子がデッキに足を踏み入れると、いきなり耳をつんざくばかりに呼び子を鳴らした。 そして青年(青年は名を古藤ことうといった)が葉子に続いて飛び乗った時には、機関車の応笛おうてきが前方で朝の町のにぎやかなさざめきを破って響き渡った。

葉子は四角なガラスをはめた入り口の繰り戸を古藤が勢いよくあけるのを待って、中にはいろうとして、八分通りつまった両側の乗客に稲妻いなずまのように鋭く目を走らしたが、左側の中央近く新聞を見入った、やせた中年の男に視線がとまると、はっと立ちすくむほど驚いた。 しかしその驚きはまたたく暇もないうちに、顔からも足からも消えうせて、葉子はわるびれもせず、取りすましもせず、自信ある女優が喜劇の舞台にでも現われるように、軽い微笑を右のほおだけに浮かべながら、古藤に続いて入り口に近い右側の空席に腰をおろすと、あでやかに青年を見返りながら、小指をなんともいえないよい形に折り曲げた左手で、びんおくをかきなでるついでに、地味じみに装って来た黒のリボンにさわってみた。 青年の前に座を取っていた四十三四のあぶらぎった商人ていの男は、あたふたと立ち上がって自分の後ろのシェードをおろして、おりふし横ざしに葉子に照りつける朝の光線をさえぎった。

紺の飛白かすり書生下駄しょせいげたをつっかけた青年に対して、素性すじょうが知れぬほど顔にも姿にも複雑な表情をたたえたこの女性の対照は、幼い少女の注意をすらひかずにはおかなかった。 乗客一同の視線はあやをなして二人ふたりの上に乱れ飛んだ。 葉子は自分が青年の不思議な対照になっているという感じを快く迎えてでもいるように、青年に対してことさら親しげな態度を見せた。

品川しながわを過ぎて短いトンネルを汽車が出ようとする時、葉子はきびしく自分を見すえる目をまゆのあたりに感じておもむろにそのほうを見かえった。 それは葉子が思ったとおり、新聞に見入っているかのやせた男だった。 男の名は木部孤※(「筑」の「凡」に代えて「卩」、第3水準1-89-60)きべこきょうといった。 葉子が車内に足を踏み入れた時、だれよりも先に葉子に目をつけたのはこの男であったが、だれよりも先に目をそらしたのもこの男で、すぐ新聞を目八にさし上げて、それに読み入って素知そしらぬふりをしたのに葉子は気がついていた。 そして葉子に対する乗客の好奇心が衰え始めたころになって、彼は本気に葉子を見つめ始めたのだ。

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或る女 - 情報

或る女 1(前編)

あるおんな 1(ぜんぺん)

文字数 149,162文字

著者リスト:
著者有島 武郎

底本 或る女 前編

青空情報


底本:「或る女 前編」岩波文庫、岩波書店
   1950(昭和25)年5月5日第1刷発行
   1968(昭和43)年6月16日第27刷改版発行
   1998(平成10)年11月16日第42刷発行
入力:真先芳秋
校正:渥美浩子
1999年10月17日公開
2013年1月8日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:或る女

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