序章-章なし
世おのずから数というもの有りや。
有りといえば有るが如く、無しと為せば無きにも似たり。
洪水天に滔るも、禹の功これを治め、大旱地を焦せども、湯の徳これを済えば、数有るが如くにして、而も数無きが如し。
秦の始皇帝、天下を一にして尊号を称す。
威
まことに当る可からず。
然れども水神ありて華陰の夜に現われ、璧を使者に托して、今年祖龍死せんと曰えば、果して始皇やがて沙丘に崩ぜり。
唐の玄宗、開元は三十年の太平を享け、天宝は十四年の華奢をほしいまゝにせり。
然れども開元の盛時に当りて、一行阿闍梨、陛下万里に行幸して、聖祚疆無からんと奏したりしかば、心得がたきことを白すよとおぼされしが、安禄山の乱起りて、天宝十五年蜀に入りたもうに及び、万里橋にさしかゝりて瞿然として悟り玉えりとなり。
此等を思えば、数無きに似たれども、而も数有るに似たり。
定命録、続定命録、前定録、感定録等、小説野乗の記するところを見れば、吉凶禍福は、皆定数ありて飲啄笑哭も、悉く天意に因るかと疑わる。
されど紛々たる雑書、何ぞ信ずるに足らん。
仮令数ありとするも、測り難きは数なり。
測り難きの数を畏れて、巫覡卜相の徒の前に首を俯せんよりは、知る可きの道に従いて、古聖前賢の教の下に心を安くせんには如かじ。
かつや人の常情、敗れたる者は天の命を称して歎じ、成れる者は己の力を説きて誇る。
二者共に陋とすべし。
事敗れて之を吾が徳の足らざるに帰し、功成って之を数の定まる有るに委ねなば、其人偽らずして真、其器小ならずして偉なりというべし。
先哲曰く、知る者は言わず、言う者は知らずと。
数を言う者は数を知らずして、数を言わざる者或は能く数を知らん。
古より今に至るまで、成敗の跡、禍福の運、人をして思を潜めしめ歎を発せしむるに足るもの固より多し。
されども人の奇を好むや、猶以て足れりとせず。
是に於て才子は才を馳せ、妄人は妄を恣にして、空中に楼閣を築き、夢裏に悲喜を画き、意設筆綴して、烏有の談を為る。
或は微しく本づくところあり、或は全く拠るところ無し。
小説といい、稗史といい、戯曲といい、寓言というもの即ち是なり。
作者の心おもえらく、奇を極め妙を極むと。
豈図らんや造物の脚色は、綺語の奇より奇にして、狂言の妙より妙に、才子の才も敵する能わざるの巧緻あり、妄人の妄も及ぶ可からざるの警抜あらんとは。
吾が言をば信ぜざる者は、試に看よ建文永楽の事を。
我が古小説家の雄を曲亭主人馬琴と為す。
馬琴の作るところ、長篇四五種、八犬伝の雄大、弓張月の壮快、皆江湖の嘖々として称するところなるが、八犬伝弓張月に比して優るあるも劣らざるものを侠客伝と為す。
憾むらくは其の叙するところ、蓋し未だ十の三四を卒るに及ばずして、筆硯空しく曲亭の浄几に遺りて、主人既に逝きて白玉楼の史となり、鹿鳴草舎の翁これを続げるも、亦功を遂げずして死せるを以て、世其の結構の偉、輪奐の美を観るに至らずして已みたり。
然れども其の意を立て材を排する所以を考うるに、楠氏の孤女を仮りて、南朝の為に気を吐かんとする、おのずから是れ一大文章たらずんば已まざるものあるをば推知するに足るあり。
惜い哉其の成らざるや。
侠客伝は女仙外史より換骨脱胎し来る。
其の一部は好逑伝に藉るありと雖も、全体の女仙外史を化し来れるは掩う可からず。
此の姑摩媛は即ち是れ彼の月君なり。
月君が建文帝の為に兵を挙ぐるの事は、姑摩媛が南朝の為に力を致さんとするの藍本たらずんばあらず。
此は是れ馬琴が腔子裏の事なりと雖も、仮に馬琴をして在らしむるも、吾が言を聴かば、含笑して点頭せん。
女仙外史一百回は、清の逸田叟、呂熊、字は文兆の著すところ、康熙四十年に意を起して、四十三年秋に至りて業を卒る。
其の書の体たるや、水滸伝平妖伝等に同じと雖も、立言の旨は、綱常を扶植し、忠烈を顕揚するに在りというを以て、南安の郡守陳香泉の序、江西の廉使劉在園の評、江西の学使楊念亭の論、広州の太守葉南田の跋を得て世に行わる。
幻詭猥雑の談に、干戈弓馬の事を挿み、慷慨節義の譚に、神仙縹緲の趣を交ゆ。