真田幸村
著者:菊池寛
さなだゆきむら - きくち かん
文字数:13,337 底本発行年:1987
真田対徳川
真田幸村の名前は、色々説あり、兄の信幸は「我弟実名は武田信玄の舎弟
『真田家古老物語』の著者桃井友直は「按ずるに初は、信繁と称し、中頃幸重、後に
大阪陣前後には、幸村と云ったのだと思うが、『常山紀談』の著者などは、
むかし、姓名判断などは、なかったのであるが、幸村ほど智才
真田は、信濃の名族
一体真田幸村が、豊臣家恩顧の武士と云うべきでもないのに、何故秀頼のために華々しき戦死を遂げたかと云うのに、恐らく父の昌幸以来、徳川家といろいろ意地が重っているのである。
上州の沼田は、利根川の上流が、片品川と相会する所にあり、右に利根川左に片品川を控えた要害無双の地であるが、関東管領家が亡びた後、真田が自力を以て、切り取った土地である。
武田亡びた後、真田は仮に徳川に従っていたが、家康が北条と媾和する時、北条側の要求に依って、沼田を北条側へ渡すことになり、家康は真田に沼田を北条へ渡してくれ、その代りお前には上田をやると云った。
所が、昌幸は、上田は信玄以来真田の居所であり、何にも徳川から貰う筋合はない。
その上、沼田はわが
家康怒って、大久保忠世、鳥居元忠、井伊直政等に攻めさせた。
それを、昌幸が相当な軍略を以て、撃退している。
小牧山の直後、秀吉家康の関係が、むつかしかった時だから、秀吉が、上杉
この
その後、家康が秀吉と
家康は、昌幸の武勇侮りがたしと思って、真田の嫡子信幸を、本多忠勝の婿にしようとした。
そして、使を出すと、昌幸は「左様の使にて
徳川の家臣の娘などと結婚させてたまるかと云う昌幸の気概想うべしである。
そこで、家康が秀吉に相談すると、
「真田
家康即ち本多忠勝の娘を養女とし、信幸に嫁せしめた。
結局、信幸は女房の縁に引かれて、後年父や弟と別れて、家康に
所が、天正十六年になって、秀吉が北条
北条としては、沼田がそんなに欲しくはなかったのだろうが、そう云う難題を出して、北条家の面目を立てさせてから上洛しようと云うのであろう。
秀吉即ち、上州に於ける真田領地の
江雪斎も、それを諒承して帰った。
所が、沼田の城代となった