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生まれいずる悩み

著者:有島武郎

うまれいずるなやみ - ありしま たけお

文字数:50,291 底本発行年:1918
著者リスト:
著者有島 武郎
親本: 生れ出る悩み
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私は自分の仕事を神聖なものにしようとしていた。 ねじ曲がろうとする自分の心をひっぱたいて、できるだけ伸び伸びしたまっすぐな明るい世界に出て、そこに自分の芸術の宮殿を築き上げようともがいていた。 それは私にとってどれほど喜ばしい事だったろう。 と同時にどれほど苦しい事だったろう。 私の心の奥底には確かに――すべての人の心の奥底にあるのと同様な――火が燃えてはいたけれども、その火をいぶらそうとする塵芥ちりあくた堆積たいせきはまたひどいものだった。 かきのけてもかきのけても容易に火の燃え立って来ないような瞬間には私はみじめだった。 私は、机の向こうに開かれた窓から、冬が来て雪にうずもれて行く一面の畑を見渡しながら、滞りがちな筆をしかりつけしかりつけ運ばそうとしていた。

寒い。 原稿紙の手ざわりは氷のようだった。

はずんずん暮れて行くのだった。 灰色からねずみ色に、ねずみ色から墨色にぼかされた大きな紙を目の前にかけて、上から下へと一気に視線を落として行く時に感ずるような速さで、昼の光は夜のやみに変わって行こうとしていた。 午後になったと思うまもなく、どんどん暮れかかる北海道の冬を知らないものには、日がいち早くむしばまれるこの気味悪いさびしさは想像がつくまい。 ニセコアンの丘陵の裂け目からまっしぐらにこの高原の畑地を目がけて吹きおろして来る風は、割合に粒の大きいかろやかな初冬の雪片をあおり立てあおり立て横ざまに舞い飛ばした。 雪片は暮れ残った光の迷子まいごのように、ちかちかした印象を見る人の目に与えながら、いたずら者らしくさんざん飛び回った元気にも似ず、降りたまった積雪の上に落ちるや否や、寒い薄紫の死を死んでしまう。 ただ窓に来てあたる雪片だけがさらさらさらさらとささやかに音を立てるばかりで、他のすべてのやつらは残らずおしだ。 快活らしい白い唖の群れの舞踏――それは見る人を涙ぐませる。

私はさびしさのあまり筆をとめて窓の外をながめてみた。 そして君の事を思った。

私が君に始めて会ったのは、私がまだ札幌さっぽろに住んでいるころだった。 私の借りた家は札幌の町はずれを流れる豊平川とよひらがわという川の右岸にあった。 その家は堤の下の一町歩ほどもある大きなりんご園の中に建ててあった。

そこにある日の午後君は尋ねて来たのだった。 君は少しふきげんそうな、口の重い、かんで背たけが伸び切らないといったような少年だった。 きたない中学校の制服の立てえりのホックをうるさそうにはずしたままにしていた、それが妙な事にはことにはっきりと私の記憶に残っている。

君は座につくとぶっきらぼうに自分のかいた絵を見てもらいたいと言い出した。 君は片手ではかかえ切れないほど油絵や水彩画を持ちこんで来ていた。 君は自分自身を平気でしいたげる人のように、ふろしき包みの中から乱暴に幾枚かの絵を引き抜いて私の前に置いた。 そしてじっと探るように私の顔を見つめた。 あからさまに言うと、その時私は君をいやに高慢ちきな若者だと思った。 そして君のほうには顔も向けないで、よんどころなくさし出された絵を取り上げて見た。

私は一目見て驚かずにはいられなかった。 少しの修練も経てはいないし幼稚な技巧ではあったけれども、その中には不思議に力がこもっていてそれがすぐ私を襲ったからだ。 私は画面から目を放してもう一度君を見直さないではいられなくなった。 で、そうした。 その時、君は不安らしいそのくせ意地っぱりな目つきをして、やはり私を見続けていた。

「どうでしょう。 それなんかはくだらない出来できだけれども」

そう君はいかにも自分の仕事を軽蔑けいべつするように言った。

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生まれいずる悩み - 情報

生まれいずる悩み

うまれいずるなやみ

文字数 50,291文字

著者リスト:
著者有島 武郎

底本 小さき者へ・生まれいずる悩み

親本 生れ出る悩み

青空情報


底本:「小さき者へ・生まれいずる悩み」岩波文庫、岩波書店
   1940(昭和15)年3月26日第1刷発行
   1962(昭和37)年10月16日第26刷改版発行
   1998(平成10)年4月6日第71刷改版発行
底本の親本:「生れ出る悩み」叢文閣
   1918(大正7)年9月初版発行
入力:土田一柄
校正:丹羽倫子
2000年10月10日公開
2012年8月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:生まれいずる悩み

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