• URLをコピーしました!

少女病

著者:田山花袋

しょうじょびょう - たやま かたい

文字数:11,698 底本発行年:1969
著者リスト:
著者田山 花袋
底本: 蒲団・一兵卒
0
0
0


山手線の朝の七時二十分の上り汽車が、代々木よよぎの電車停留場の崖下がけしたを地響きさせて通るころ、千駄谷せんだがや田畝たんぼをてくてくと歩いていく男がある。 この男の通らぬことはいかな日にもないので、雨の日には泥濘でいねいの深い田畝道たんぼみちに古い長靴ながぐつを引きずっていくし、風の吹く朝には帽子を阿弥陀あみだにかぶって塵埃じんあいを避けるようにして通るし、沿道の家々の人は、遠くからその姿を見知って、もうあの人が通ったから、あなたお役所がおそくなりますなどと春眠いぎたなき主人を揺り起こす軍人の細君もあるくらいだ。

この男の姿のこの田畝道にあらわれ出したのは、今からふた月ほど前、近郊の地が開けて、新しい家作がかなたの森のかど、こなたの丘の上にでき上がって、某少将の邸宅、某会社重役の邸宅などの大きな構えが、武蔵野のなごりのくぬぎの大並木の間からちらちらと画のように見えるころであったが、そのくぬぎの並木のかなたに、貸家建ての家屋が五、六軒並んであるというから、なんでもそこらに移転して来た人だろうとのもっぱらの評判であった。

何も人間が通るのに、評判を立てるほどのこともないのだが、さびしい田舎で人珍しいのと、それにこの男の姿がいかにも特色があって、そしてあひるの歩くような変てこな形をするので、なんともいえぬ不調和――その不調和が路傍の人々のひまな眼をくもととなった。

年のころ三十七、八、猫背ねこぜで、獅子鼻ししばなで、反歯そっぱで、色が浅黒くッて、頬髯ほおひげうるさそうに顔の半面をおおって、ちょっと見ると恐ろしい容貌ようぼう、若い女などは昼間出逢であっても気味悪く思うほどだが、それにも似合わず、眼には柔和なやさしいところがあって、絶えず何物をか見てあこがれているかのように見えた。 足のコンパスは思い切って広く、トットと小きざみに歩くその早さ! 演習に朝出る兵隊さんもこれにはいつも三舎を避けた。

たいてい洋服で、それもスコッチの毛のれてなくなった鳶色とびいろの古背広、上にはおったインバネスも羊羹色ようかんいろに黄ばんで、右の手には犬の頭のすぐ取れる安ステッキをつき、がらにない海老茶色えびちゃいろ風呂敷ふろしき包みをかかえながら、左の手はポッケットに入れている。

がきの外を通りかかると、

「今お出かけだ!」

と、田舎の角の植木屋の主婦が口の中で言った。

その植木屋も新建ちの一軒家で、売り物のひょろ松やらかしやら黄楊つげやら八ツ手やらがその周囲にだらしなく植え付けられてあるが、その向こうには千駄谷の街道を持っている新開の屋敷町が参差しんしとして連なって、二階のガラス窓には朝日の光がきらきらと輝き渡った。 左は角筈つのはずの工場の幾棟、細い煙筒からはもう労働に取りかかった朝の煙がくろく低くなびいている。 晴れた空には林を越して電信柱が頭だけ見える。

男はてくてくと歩いていく。

田畝を越すと、二間幅の石ころ道、柴垣しばがき樫垣かしがき要垣かなめがき、その絶え間絶え間にガラス障子、冠木門かぶきもん、ガス燈と順序よく並んでいて、庭の松に霜よけのなわのまだ取られずについているのも見える。 一、二丁行くと千駄谷通りで、毎朝、演習の兵隊が駆け足で通っていくのに邂逅かいこうする。 西洋人の大きな洋館、新築の医者の構えの大きな門、駄菓子だがしを売る古い茅葺かやぶきの家、ここまで来ると、もう代々木の停留場の高い線路が見えて、新宿あたりで、ポーと電笛の鳴る音でも耳に入ると、男はその大きな体を先へのめらせて、見栄も何もかまわずに、一散に走るのが例だ。

今日もそこに来て耳を※(「奇+攴」、第3水準1-85-9)そばだてたが、電車の来たような気勢けはいもないので、同じ歩調ですたすたと歩いていったが、高い線路に突き当たって曲がる角で、ふと栗梅くりうめ縮緬ちりめんの羽織をぞろりと着た恰好かっこうの好い庇髪ひさしがみの女の後ろ姿を見た。 鶯色うぐいすいろのリボン、繻珍しゅちん鼻緒はなお、おろし立ての白足袋しろたび、それを見ると、もうその胸はなんとなくときめいて、そのくせどうのこうのと言うのでもないが、ただうれしく、そわそわして、その先へ追い越すのがなんだか惜しいような気がする様子である。 男はこの女を既に見知っているので、少なくとも五、六度はその女と同じ電車に乗ったことがある。 それどころか、冬の寒い夕暮れ、わざわざまわみちをしてその女の家を突き留めたことがある。 千駄谷の田畝の西のすみで、樫の木で取り囲んだ奥の大きな家、その総領娘であることをよく知っている。 まゆの美しい、色の白いほおの豊かな、笑う時言うに言われぬ表情をその眉と眼との間にあらわす娘だ。

「もうどうしても二十二、三、学校に通っているのではなし……それは毎朝わぬのでもわかるが、それにしてもどこへ行くのだろう」と思ったが、その思ったのが既に愉快なので、眼の前にちらつく美しい着物の色彩が言い知らず胸をそそる。 「もう嫁に行くんだろう?」と続いて思ったが、今度はそれがなんだかわびしいような惜しいような気がして、「おれも今少し若ければ……」と二の矢を継いでたが、「なんだばかばかしい、己は幾歳だ、女房もあれば子供もある」と思い返した。 思い返したが、なんとなく悲しい、なんとなく嬉しい。

代々木の停留場に上る階段のところで、それでも追い越して、きぬずれの音、白粉おしろいにおいに胸をおどらしたが、今度は振り返りもせず、大足に、しかも駆けるようにして、階段を上った。

停留場の駅長が赤い回数切符を切って返した。 この駅長もその他の駅夫も皆この大男に熟している。 せっかちで、あわて者で、早口であるということをも知っている。

板囲いの待合所に入ろうとして、男はまたその前に兼ねて見知り越しの女学生の立っているのをめざとくも見た。

肉づきのいい、頬の桃色の、輪郭の丸い、それはかわいい娘だ。 はでな縞物しまものに、海老茶のはかまをはいて、右手に女持ちの細い蝙蝠傘こうもりがさ、左の手に、紫の風呂敷包みを抱えているが、今日はリボンがいつものと違って白いと男はすぐ思った。

この娘は自分を忘れはすまい、むろん知ってる! と続いて思った。 そして娘の方を見たが、娘は知らぬ顔をして、あっちを向いている。 あのくらいのうちは恥ずかしいんだろう、と思うとたまらなくかわいくなったらしい。 見ぬようなふりをして幾度となく見る、しきりに見る。 ――そしてまた眼をそらして、今度は階段のところで追い越した女の後ろ姿に見入った。

電車の来るのも知らぬというように――。

━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

少女病 - 情報

少女病

しょうじょびょう

文字数 11,698文字

著者リスト:
著者田山 花袋

底本 蒲団・一兵卒

青空情報


底本:「蒲団・一兵卒」角川文庫、角川書店
   1969(昭和44)年10月20日改版初版発行
   1974(昭和49)年11月30日改版8版発行
入力:久保あきら
校正:伊藤時也
2000年9月28日公開
2013年5月8日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:少女病

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!