• URLをコピーしました!

一兵卒

著者:田山花袋

いっぺいそつ - たやま かたい

文字数:11,489 底本発行年:1969
著者リスト:
著者田山 花袋
底本: 蒲団・一兵卒
0
0
0


序章-章なし

かれは歩き出した。

銃が重い、背嚢はいのうが重い、あしが重い、アルミニウム製の金椀かなわんが腰の剣に当たってカタカタと鳴る。 その音が興奮した神経をおびただしく刺戟しげきするので、幾度かそれを直してみたが、どうしても鳴る、カタカタと鳴る。 もういやになってしまった。

病気はほんとうに治ったのでないから、息が非常に切れる。 全身には悪熱悪寒が絶えず往来する。 頭脳が火のように熱して、※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみがはげしい脈を打つ。 なぜ、病院を出た? 軍医があとがたいせつだと言ってあれほど留めたのに、なぜ病院を出た? こう思ったが、渠はそれを悔いはしなかった。 敵の捨ててげたきたない洋館の板敷き、八畳くらいのへやに、病兵、負傷兵が十五人、衰頽すいたいと不潔と叫喚と重苦しい空気と、それにすさまじいはえの群集、よく二十日も辛抱していた。 麦飯のかゆに少しばかりの食塩、よくあれでも飢餓をしのいだ。 かれは病院の背後の便所を思い出してゾッとした。 急造の穴の掘りようが浅いので、臭気が鼻と眼とをはげしくつ。 蠅がワンと飛ぶ。 石灰の灰色によごれたのが胸をむかむかさせる。

あれよりは……あそこにいるよりは、この闊々ひろびろとした野の方がいい。 どれほど好いかしれぬ。 満洲の野は荒漠こうばくとして何もない。 畑にはもう熟しかけた高粱こうりゃんが連なっているばかりだ。 けれど新鮮な空気がある、日の光がある、雲がある、山がある、――すさまじい声が急に耳に入ったので、立ち留まってかれはそっちを見た。 さっきの汽車がまだあそこにいる。 かまのない煙筒のない長い汽車を、支那苦力クーリーが幾百人となく寄ってたかって、ちょうどありが大きな獲物を運んでいくように、えっさらおっさら押していく。

夕日が画のように斜めにさし渡った。

さっきの下士があそこに乗っている。 あの一段高い米のかますの積み荷の上に突っ立っているのが彼奴きゃつだ。 苦しくってとても歩けんから、鞍山站あんざんたんまで乗せていってくれと頼んだ。 すると彼奴め、兵を乗せる車ではない、歩兵が車に乗るという法があるかとどなった。 病気だ、ご覧の通りの病気で、脚気かっけをわずらっている。 鞍山站の先まで行けば隊がいるに相違ない。 武士は相見互いということがある、どうか乗せてくれッて、たって頼んでも、言うことを聞いてくれなかった。 兵、兵といって、筋が少ないとばかにしやがる。 金州でも、得利寺でも兵のおかげで戦争に勝ったのだ。 馬鹿奴ばかめ、悪魔奴!

蟻だ、蟻だ、ほんとうに蟻だ。 まだあそこにいやがる。 汽車もああなってはおしまいだ。 ふと汽車――豊橋をってきた時の汽車が眼の前を通り過ぎる。 停車場は国旗で埋められている。 万歳の声が長く長く続く。 忽然こつぜん最愛の妻の顔が眼に浮かぶ。

序章-章なし
━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

一兵卒 - 情報

一兵卒

いっぺいそつ

文字数 11,489文字

著者リスト:
著者田山 花袋

底本 蒲団・一兵卒

青空情報


底本:「蒲団・一兵卒」角川文庫、角川書店
   1969(昭和44)年10月20日改版初版発行
   1974(昭和49)年11月30日改版8版発行
※混在している「満州」と「満洲」、「輌」と「輛」は底本通りです。
入力:久保あきら
校正:伊藤時也
2000年9月28日公開
2011年5月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:一兵卒

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!