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虞美人草

著者:夏目漱石

ぐびじんそう - なつめ そうせき

文字数:197,484 底本発行年:1971
著者リスト:
著者夏目 漱石
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序章-章なし

「随分遠いね。 元来がんらいどこから登るのだ」

一人ひとり手巾ハンケチひたいを拭きながら立ちどまった。

「どこかおれにも判然せんがね。 どこから登ったって、同じ事だ。 山はあすこに見えているんだから」

と顔も体躯からだも四角に出来上った男が無雑作むぞうさに答えた。

そりを打った中折れの茶のひさしの下から、深きまゆを動かしながら、見上げる頭の上には、微茫かすかなる春の空の、底までもあいを漂わして、吹けばうごくかと怪しまるるほど柔らかき中に屹然きつぜんとして、どうする気かとわぬばかりに叡山えいざんそびえている。

「恐ろしい頑固がんこな山だなあ」と四角な胸を突き出して、ちょっと桜のつえに身をたせていたが、

「あんなに見えるんだから、わけはない」と今度は叡山えいざん軽蔑けいべつしたような事を云う。

「あんなに見えるって、見えるのは今朝けさ宿を立つ時から見えている。 京都へ来て叡山が見えなくなっちゃ大変だ」

「だから見えてるから、好いじゃないか。 余計な事を云わずに歩行あるいていれば自然と山の上へ出るさ」

細長い男は返事もせずに、帽子を脱いで、胸のあたりをあおいでいる。 日頃ひごろからなるひさしさえぎられて、菜の花を染め出す春の強き日を受けぬ広きひたいだけは目立って蒼白あおしろい。

「おい、今から休息しちゃ大変だ、さあ早く行こう」

相手は汗ばんだ額を、思うまま春風にさらして、ねばり着いた黒髪の、さかに飛ばぬをうらむごとくに、手巾ハンケチを片手に握って、額とも云わず、顔とも云わず、頸窩ぼんのくぼの尽くるあたりまで、くちゃくちゃにき廻した。 うながされた事には頓着とんじゃくする気色けしきもなく、

「君はあの山を頑固がんこだと云ったね」と聞く。

「うむ、動かばこそと云ったような按排あんばいじゃないか。 こう云う風に」と四角な肩をいとど四角にして、いた方の手に栄螺さざえの親類をつくりながら、いささか我も動かばこその姿勢を見せる。

「動かばこそと云うのは、動けるのに動かない時の事を云うのだろう」と細長い眼のかどからななめに相手を見下みおろした。

「そうさ」

「あの山は動けるかい」

「アハハハまた始まった。 君は余計な事を云いに生れて来た男だ。 さあ行くぜ」と太い桜の洋杖ステッキを、ひゅうと鳴らさぬばかりに、肩の上まで上げるやいなや、歩行あるき出した。 せた男も手巾ハンケチたもとに収めて歩行き出す。

「今日は山端やまばな平八茶屋へいはちぢゃや一日いちんち遊んだ方がよかった。 今から登ったって中途半端はんぱになるばかりだ。 元来がんらい頂上まで何里あるのかい」

「頂上まで一里半だ」

「どこから」

「どこからか分るものか、たかの知れた京都の山だ」

せた男は何にも云わずににやにやと笑った。 四角な男は威勢よく喋舌しゃべり続ける。

「君のように計画ばかりしていっこう実行しない男と旅行すると、どこもかしこも見損みそこなってしまう。

序章-章なし
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虞美人草 - 情報

虞美人草

ぐびじんそう

文字数 197,484文字

著者リスト:
著者夏目 漱石

底本 夏目漱石全集4

親本 筑摩全集類聚版夏目漱石全集

青空情報


底本:「夏目漱石全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年1月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年4月3日公開
2004年1月10日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:虞美人草

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