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神神の微笑

著者:芥川龍之介

かみがみのびしょう - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:8,843 底本発行年:1971
著者リスト:
著者芥川 竜之介
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序章-章なし

ある春のゆうべ、Padre Organtino はたった一人、長いアビト(法衣ほうえ)のすそを引きながら、南蛮寺なんばんじの庭を歩いていた。

庭には松やひのきあいだに、薔薇ばらだの、橄欖かんらんだの、月桂げっけいだの、西洋の植物が植えてあった。 殊に咲き始めた薔薇の花は、木々をかすかにする夕明ゆうあかりの中に、薄甘いにおいを漂わせていた。 それはこの庭の静寂に、何か日本にほんとは思われない、不可思議な魅力みりょくを添えるようだった。

オルガンティノは寂しそうに、砂の赤い小径こみちを歩きながら、ぼんやり追憶に耽っていた。 羅馬ロオマ大本山だいほんざん、リスポアの港、羅面琴ラベイカ巴旦杏はたんきょうの味、「御主おんあるじ、わがアニマ(霊魂)の鏡」の歌――そう云う思い出はいつのまにか、この紅毛こうもう沙門しゃもんの心へ、懐郷かいきょうの悲しみを運んで来た。 彼はその悲しみを払うために、そっと泥烏須デウス(神)の御名みなを唱えた。 が、悲しみは消えないばかりか、前よりは一層彼の胸へ、重苦しい空気を拡げ出した。

「この国の風景は美しい――。」

オルガンティノは反省した。

「この国の風景は美しい。 気候もまず温和である。 土人は、――あの黄面こうめん小人こびとよりも、まだしも黒ん坊がましかも知れない。 しかしこれも大体の気質は、親しみ易いところがある。 のみならず信徒も近頃では、何万かを数えるほどになった。 現にこの首府のまん中にも、こう云う寺院がそびえている。 して見ればここに住んでいるのは、たとい愉快ではないにしても、不快にはならない筈ではないか? が、自分はどうかすると、憂鬱の底に沈む事がある。 リスポアのまちへ帰りたい、この国を去りたいと思う事がある。 これは懐郷の悲しみだけであろうか? いや、自分はリスポアでなくとも、この国を去る事が出来さえすれば、どんな土地へでも行きたいと思う。 支那しなでも、沙室シャムでも、印度インドでも、――つまり懐郷の悲しみは、自分の憂鬱の全部ではない。 自分はただこの国から、一日も早く逃れたい気がする。 しかし――しかしこの国の風景は美しい。 気候もまず温和である。 ……」

オルガンティノは吐息といきをした。 この時偶然彼の眼は、点々と木かげのこけに落ちた、仄白ほのじろい桜の花をとらえた。 桜! オルガンティノは驚いたように、薄暗い木立こだちのあいだを見つめた。 そこには四五本の棕櫚しゅろの中に、枝を垂らした糸桜いとざくらが一本、夢のように花を煙らせていた。

御主おんあるじ守らせ給え!」

オルガンティノは一瞬間、降魔ごうまの十字を切ろうとした。 実際その瞬間彼の眼には、この夕闇に咲いた枝垂桜しだれざくらが、それほど無気味ぶきみに見えたのだった。 無気味に、――と云うよりもむしろこの桜が、何故なぜか彼を不安にする、日本そのもののように見えたのだった。 が、彼は刹那せつなのち、それが不思議でも何でもない、ただの桜だった事を発見すると、恥しそうに苦笑しながら、静かにまたもと来た小径へ、力のない歩みを返して行った。

×          ×          ×

三十分ののち、彼は南蛮寺なんばんじ内陣ないじんに、泥烏須デウスへ祈祷を捧げていた。 そこにはただ円天井まるてんじょうから吊るされたランプがあるだけだった。 そのランプの光の中に、内陣を囲んだフレスコの壁には、サン・ミグエルが地獄の悪魔と、モオゼの屍骸しがいを争っていた。 が、勇ましい大天使は勿論、たけり立った悪魔さえも、今夜はおぼろげな光の加減か、妙にふだんよりは優美に見えた。 それはまた事によると、祭壇の前に捧げられた、水々みずみずしい薔薇ばら金雀花えにしだが、匂っているせいかも知れなかった。

序章-章なし
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神神の微笑 - 情報

神神の微笑

かみがみのびしょう

文字数 8,843文字

著者リスト:

底本 芥川龍之介全集4

親本 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集

青空情報


底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
   1993(平成5)年12月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月19日公開
2004年3月10日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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