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かのように

著者:森鴎外

かのように - もり おうがい

文字数:22,494 底本発行年:1968
著者リスト:
著者森 鴎外
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序章-章なし

朝小間使の雪が火鉢ひばちに火を入れに来た時、奥さんが不安らしい顔をして、「秀麿ひでまろの部屋にはゆうべも又電気が附いていたね」と云った。

「おや。 さようでございましたか。 っき瓦斯煖炉ガスだんろに火を附けにまいりました時は、明りはお消しになって、お床の中で煙草たばこを召し上がっていらっしゃいました。」

雪はこの返事をしながら、戸を開けて自分が這入はいった時、大きい葉巻の火が、暗い部屋の、しんとしている中で、ぼうっと明るくなっては、又かすかになっていた事を思い出して、折々あることではあるが、今朝もはっと思って、「おや」と口に出そうであったのをみ込んだ、その瞬間の事を思い浮べていた。

「そうかい」と云って、奥さんは雪が火をけて、大きいわく火鉢の中の、真っ白い灰を綺麗きれいに、盛り上げたようにして置いて、って行くのを、やはり不安な顔をして、見送っていた。 やしきでは瓦斯が勝手にまで使ってあるのに、奥さんは逆上のぼせると云って、炭火に当っているのである。

電燈はやしきではどの寝間にも夜どおし附いている。 しかし秀麿は寝る時必ず消して寝る習慣を持っているので、それが附いていれば、又徹夜して本を読んでいたと云うことが分かる。 それで奥さんは手水ちょうずに起きるたびに、廊下から見て、秀麿のいる洋室の窓のすきから、火の光の漏れるのを気にしているのである。

――――――――――――――――

秀麿は学習院から文科大学に這入って、歴史科で立派に卒業した。 卒業論文には、国史は自分が畢生ひっせいの事業として研究する積りでいるのだから、いやしくも筆をけたくないと云って、古代印度インド史の中から、「迦膩色迦王かにしかおう仏典結集ぶってんけつじゅう」と云う題を選んだ。 これは阿輸迦王あそかおうの事はこれまで問題になっていて、この王の事がまだ研究してなかったからである。 しかしこれまで特別にそう云う方面の研究をしていたのでないから、秀麿は一歩一歩非常な困難に撞著どうちゃくして、どうしてもこれはサンスクリットをまるで知らないでは、正確な判断は下されないと考えて、急に高楠博士たかくすはくしの所へけ附けて、梵語ぼんご研究の手ほどきをして貰った。 しかしこう云う学問はなかなか急拵きゅうごしらえに出来るはずのものでないから、少しずつ分かって来れば来る程、困難を増すばかりであった。 それでも屈せずに、選んだ問題だけは、どうにかこうにか解決を附けた。 自分ではひどく不満足に思っているが、率直な、一切の修飾をしりぞけた秀麿の記述は、これまでの卒業論文には余り類がないと云うことであった。

丁度この卒業論文問題の起った頃からである。 秀麿は別に病気はないのに、元気がなくなって、顔色があおく、目が異様にかがやいて、これまでも多く人に交際をしない男が、一層社交に遠ざかって来た。 五条家では、奥さんを始として、ひどく心配して、医者に見せようとしたが、「わたくしは病気なんぞはありません」と云って、どうしても聴かない。 奥さんは内証ないしょうで青山博士が来た時尋ねてみた。 青山博士は意外な事を問われたと云うような顔をしてこう云った。

「秀麿さんですか。 診察しなくちゃ、なんとも云われませんね。 ふん。 そうですか。 病気はないから、医者には見せないと云うのでしたっけ。 そうかも知れません。 わたくしなんぞは学生を大勢見ているのですが、少し物の出来る奴が卒業する前後には、皆あんな顔をしていますよ。 毎年卒業式の時、そばで見ていますが、お時計を頂戴ちょうだいしに出て来る優等生は、大抵秀麿さんのような顔をしていて、卒倒でもしなければ好いと思う位です。 も少しで神経衰弱になると云うところで、ならずに済んでいるのです。 卒業さえしてしまえば直ります。」

奥さんもなる程そうかと思って、いて心配を押さえ附けて、今に直るだろう、今に直るだろうと、自分で自分に暗示を与えるように努めていた。 秀麿が目の前にいない時は、青山博士の言った事を、一句一句繰り返して味ってみて、「なる程そうだ、なんの秀麿に病気があるものか、大丈夫だ、今に直る」と思ってみる。 そこへ秀麿が蒼い顔をして出て来て、何かうわそらで言って、跡は黙り込んでしまう。 こっちから何か話し掛けると、っていないような、せめふさぐような返事を、ことばの調子だけ優しくしてする。 なんだか、こっちの詞は、子供が銅像に吹矢を射掛けたように、皮膚からはじき戻されてしまうような心持がする。 それを見ると、切角青山博士の詞を基礎にして築き上げた楼閣ろうかくが、覚束おぼつかなくぐらついて来るので、奥さんは又心配をし出すのであった。

序章-章なし
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かのように

文字数 22,494文字

著者リスト:
著者森 鴎外

底本 阿部一族・舞姫

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底本:「阿部一族・舞姫」新潮文庫、新潮社
   1968(昭和43)年4月20日発行
   1985(昭和60)年5月20日36刷改版
入力:高橋真也
校正:湯地光弘
1999年9月23日公開
2006年4月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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