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百物語

著者:森鴎外

ひゃくものがたり - もり おうがい

文字数:12,504 底本発行年:1968
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著者森 鴎外
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序章-章なし

何か事情があって、川開きが暑中を過ぎた後に延びた年の当日であったかと思う。 余程年も立っているので、記憶がややおぼろげになってはいるが又かえってそれがめに、或る廉々かどかどがアクサンチュエエせられて、かすんだ、濁った、しかも強い色にいろどられて、古びた想像のしまってある、僕の脳髄の物置のすみころがっている。

勿論もちろん生れて始ての事であったが、これから後もずそんな事は無さそうだから、生涯にただ一度の出来事に出くわしたのだと云って好かろう。 それは僕が百物語の催しに行った事である。

小説に説明をしてはならないのだそうだが、自惚うぬぼれは誰にもあるもので、この話でも万一ヨオロッパのどの国かのことばに翻訳せられて、世界の文学の仲間入をするような事があった時、余所よその読者に分からないだろうかと、作者は途方もない考を出して、行きなり説明をもってこの小説を書きはじめる。 百物語とは多勢の人が集まって、蝋燭ろうそくを百本立てて置いて、一人が一つずつ化物ばけものの話をして、一本ずつ蝋燭を消して行くのだそうだ。 そうすると百本目の蝋燭が消された時、真の化物が出ると云うことである。 事によったら例のファキイルと云うやつがアルラア・アルラアを唱えて、頭をっているうちに、覿面てきめんに神を見るように、神経に刺戟しげきを加えて行って、一時幻視幻聴を起すに至るのではあるまいか。

僕をこの催しに誘い出したのは、写真を道楽にしているしとみ君と云う人であった。 いつも身綺麗みぎれいにしていて、衣類や持物に、その時々の流行をっている。 或時僕が脚本の試みをしているのを見てこんな事を言った。 「どうもあなたのお書きになるものは少し勝手が違っています。 ちょいちょい芝居を御覧になったらいでしょう」これは親切に言ってくれたのであるが、こっちが却ってその勝手を破壊しようと思っているのだとは、全く気が附いていなかったらしい。 僕の試みは試みで終ってしまって、何等の成功をも見なかったが、後継者は段々勝手の違った物を出し出しして、芝居の面目が今ではだいぶ改まりそうになって来ている。 つまりねじれた、時代を超絶したような考は持ってもいず、解せようともしなかったのが、蔀君の特色であったらしい。 さ程深くもなかったまじわりが絶えてから、もう久しくなっているが、僕はあの人の飽くまで穏健な、目前に提供せられる受用を、程好く享受していると云う風の生活を、今でもうらやましく思っている。 蔀君は下町の若旦那わかだんなの中で、最も聡明そうめいな一人であったと云ってかろう。

この蔀君が僕の内へ来たのは、川開きの前日の午過ひるすぎであった。 あすの川開きに、両国をあとに見て、川上へ上って、寺島で百物語の催しをしようと云うのだが、行って見ぬかと云う。 主人は誰だ。 案内もないに、行っても好いのかと、僕は問うた。 「なに。 例の飾磨屋しかまやさんが催すのです。 だいぶ大勢の積りだし、不参の人もありそうだから、飛入をしても構わないのですが、それでは徳義上行かれぬなんぞと、あなたの事だから云うかも知れない。 しかし二三日前にった時、あなたにはわたくしから話をして見て、来られるようなら、おつれ申すかも知れないと、勝兵衛しょうべえさんにことわってあります。 わたくしが一しょに行くと好いが、ほかへ廻って行かなくてはならないから、一足先きへ御免をこうむります」との事であった。

時刻と集合の場所とを聞いて置いた僕は、丁度外に用事もないので、まあ、どんな事をするか行って見ようと云う位の好奇心を出して、約束の三時半頃に、柳橋の船宿へ行って見た。 天気はまだ少し蒸暑いが、余り強くない南風が吹いていて、しのぎ好かった。 船宿は今は取り払われた河岸かしで、丁度亀清かめせい向側むこうがわになっていた。 多分増田屋であったかと思う。

こう云う日に目貫めぬきの位置にある船宿一軒を借切りにしたものと見えて、しかもその家は近所の雑沓ざっとうよりも雑沓している。 階上階下とも、どの部屋にも客が一ぱい詰め掛けている。 僕は人の案内するままに二階へのぼって、一間ひとまを見渡したが、どれもどれも知らぬ顔の男ばかりの中に、ひげの白い依田よだ学海さんが、紺絣こんがすり銘撰めいせんの着流しに、薄羽織を引っ掛けて据わっていた。 依田さんの前には、大層身綺麗にしている、少し太った青年が恭しげに据わって、話をしている。 僕は依田さんに挨拶をして、少し隔たった所に割り込んだ。 すだれしに川風が吹き込んで、人の込み合っている割に暑くはなかった。

僕はしばらく依田さんと青年との対話を聞いているうちに、その青年が壮士俳優だと云うことを知った。 俳優は依田さんの意を迎えて、「なんでもこれからの俳優は書見をいたさなくてはなりません」などと云っている。 そしてそう云っている態度と、読書と云うものとが、この上もない不調和に思われるので、僕はおせっかいながら、そばで聞いていて微笑せざることを得なかった。

序章-章なし
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百物語 - 情報

百物語

ひゃくものがたり

文字数 12,504文字

著者リスト:
著者森 鴎外

底本 山椒大夫・高瀬舟

青空情報


底本:「山椒大夫・高瀬舟」新潮文庫、新潮社
   1968(昭和43)年5月30日発行
   1985(昭和60)年6月10日41刷改版
   1990(平成2)年5月30日53刷
※底本には、表記の変更に関する以下の注記が見られる。
「本書は旧仮名づかいで書かれていたものを(中略)、現代仮名づかいに改めた。」
 加えて、極端な宛て字と思われるもの、代名詞、副詞、接続詞などは、以下のように書き換えたとある。
…か知ら→…かしら 此→かく 彼此→かれこれ …切り→…きり 此→これ 是→これ 流石→さすが 併し→しかし 切角→せっかく 其→その 大ぶ→だいぶ …丈→…だけ 兎角→とにかく 所で→ところで 只管→ひたすら 迄→まで 儘→まま 矢張→やはり
入力:砂場清隆
校正:松永正敏
2000年8月9日公開
2006年5月12日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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