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名人伝

著者:中島敦

めいじんでん - なかじま あつし

文字数:5,718 底本発行年:1987
著者リスト:
著者中島 敦
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序章-章なし

ちょう邯鄲かんたんの都に住む紀昌きしょうという男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。 おのれの師とたのむべき人物を物色するに、当今弓矢をとっては、名手・飛衛ひえいおよぶ者があろうとは思われぬ。 百歩をへだてて柳葉りゅうようを射るに百発百中するという達人だそうである。 紀昌は遥々はるばる飛衛をたずねてその門に入った。

飛衛は新入の門人に、まずまたたきせざることを学べと命じた。 紀昌は家に帰り、妻の機織台はたおりだいの下にもぐんで、そこに仰向あおむけにひっくり返った。 とすれすれに機躡まねきが忙しく上下往来するのをじっと瞬かずに見詰みつめていようという工夫くふうである。 理由を知らない妻は大いにおどろいた。 第一、みょうな姿勢を妙な角度から良人おっとのぞかれては困るという。 いやがる妻を紀昌はしかりつけて、無理に機を織り続けさせた。 来る日も来る日もかれはこの可笑おかしな恰好かっこうで、瞬きせざる修練を重ねる。 二年ののちには、あわただしく往返する牽挺まねき睫毛まつげかすめても、絶えて瞬くことがなくなった。 彼はようやく機の下から匍出はいだす。 もはや、鋭利えいりきりの先をもってまぶたかれても、まばたきをせぬまでになっていた。 不意にが目に飛入ろうとも、目の前に突然とつぜん灰神楽はいかぐらが立とうとも、彼は決して目をパチつかせない。 彼の瞼はもはやそれを閉じるべき筋肉の使用法を忘れ果て、夜、熟睡じゅくすいしている時でも、紀昌の目はカッと大きく見開かれたままである。 ついに、彼の目の睫毛と睫毛との間に小さな一ぴき蜘蛛くもをかけるに及んで、彼はようやく自信を得て、師の飛衛にこれを告げた。

それを聞いて飛衛がいう。 瞬かざるのみではまだしゃを授けるに足りぬ。 次には、ることを学べ。 視ることに熟して、さて、小を視ること大のごとく、を見ることちょのごとくなったならば、きたって我に告げるがよいと。

紀昌は再び家にもどり、肌着はだぎ縫目ぬいめからしらみを一匹探し出して、これをおのかみの毛をもってつないだ。 そうして、それを南向きの窓にけ、終日にららすことにした。 毎日毎日彼は窓にぶら下った虱を見詰める。 初め、もちろんそれは一匹の虱に過ぎない。 二三日たっても、依然いぜんとして虱である。 ところが、十日余り過ぎると、気のせいか、どうやらそれがほんの少しながら大きく見えて来たように思われる。 三月目みつきめの終りには、明らかにかいこほどの大きさに見えて来た。 虱をるした窓の外の風物は、次第に移り変る。 煕々ききとして照っていた春のはいつかはげしい夏の光に変り、んだ秋空を高くがんわたって行ったかと思うと、はや、寒々とした灰色の空からみぞれが落ちかかる。 紀昌は根気よく、毛髪もうはつの先にぶら下った有吻類ゆうふんるい催痒性さいようせいの小節足動物を見続けた。 その虱も何十匹となく取換とりかえられて行くうちに、早くも三年の月日が流れた。 ある日ふと気が付くと、窓の虱が馬のような大きさに見えていた。 めたと、紀昌はひざを打ち、表へ出る。 彼は我が目を疑った。 人は高塔こうとうであった。 馬は山であった。 ぶたおかのごとく、※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)城楼じょうろうと見える。 雀躍じゃくやくして家にとって返した紀昌は、再び窓際の虱に立向い、燕角えんかくゆみ朔蓬さくほう※(「竹かんむり/幹」、第3水準1-89-75)やがらをつがえてこれを射れば、矢は見事に虱の心の臓をつらぬいて、しかも虱を繋いだ毛さえれぬ。

序章-章なし
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名人伝 - 情報

名人伝

めいじんでん

文字数 5,718文字

著者リスト:
著者中島 敦

底本 ちくま日本文学全集 中島敦 (2)

親本 中島敦全集 第一巻

青空情報


底本:「ちくま日本文学全集 中島敦」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年7月20日第1刷発行
底本の親本:「中島敦全集 第一巻」筑摩書房
   1987(昭和62)年9月
初出:「文庫」
   1942(昭和17)年12月号
入力:大内章
校正:j.utiyama
1998年10月26日公開
2004年2月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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