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入れ札

著者:菊池寛

いれふだ - きくち かん

文字数:9,374 底本発行年:1970
著者リスト:
著者菊池 寛
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序章-章なし

上州じょうしゅう岩鼻いわはなの代官をり殺した国定忠次くにさだちゅうじ一家の者は、赤城山あかぎやまへ立てこもって、八州の捕方とりかたを避けていたが、其処そこも防ぎきれなくなると、忠次をはじめ、十四五人の乾児こぶんは、ようやく一方の血路を、り開いて、信州路へ落ちて行った。

夜中に利根川とねがわを渡った。 渋川の橋は、捕方が固めていたので、一里ばかり下流を渡った。 水勢がはげしいため、両岸に綱を引いて渡ったが、それでも乾児の一人は、つい手を離したため流されてしまった。

渋川から、伊香保いかほ街道に添うて、道もない裏山を、榛名はるなにかかった。 一日、一晩で、やっと榛名を越えた。 が、榛名を越えてしまうと、ぐ其処に大戸おおどの御番所があった。

信州へ出るのには、この御番所が、第一の難関であった。 この関所をさえ越してしまえば、向うは信濃境しなのざかいまで、山又山が続いているだけであった。

忠次達が、関所へかかったのは、夜の引き明けだった。 わずか、五六人しか居ない役人達は、忠次達のいきおいおそれたものか、彼等の通行を一言もとがめなかった。

関所を過ぎると、さすがに皆は、ほっと安心した。 本街道を避けて、裏山へかかって来るに連れて、夜がしらじらと明けて来た。 丁度上州一円に、春蚕はるご孵化かえろうとする春の終の頃であった。 山上から見下すと、街道に添うた村々には、青い桑畑が、朝靄あさもやうちに、何処どこまでも続いていた。

関東じまあわせに、鮫鞘さめざや長脇差ながわきざしして、脚絆きゃはん草鞋わらじで、厳重な足ごしらえをした忠次は、すげのふき下しの笠をかぶって、先頭に立って、威勢よく歩いていた。 小鬢こびんの所に、傷痕きずあとのある浅黒い顔が、一月に近い辛苦で、少しやつれが見えたため、一層凄味すごみを見せていた。 乾児も、大抵同じような風体ふうていをしていた。 が、忠次の外は、誰も菅笠を冠ってはいなかった。 中には、片袖かたそでの半分ちぎれかけている者や、脚絆の一方ない者や、白っぽい縞の着物に、所々血をにじませているものなども居た。

街道を避けながら、しかも街道を見失わないように、彼等は山から山へと辿たどった。 大戸の関から、二里ばかりも来たと思う頃、雑木の茂った小高い山の中腹に出ていた。 ふと振りかえると、今まで見えなかった赤城が、山と山の間に、ほのかに浮び出ていた。

「赤城山も見収めだな。 おい、此処ここいらで一服しようか」

そう云いながら、忠次は足下に大きい切り株を見付けて、どっかりと、腰を降した。 彼の眼は、しばらくの間、四十年見なれたなつかしい山の姿にとらわれていた。 赤城山が利根川の谿谷けいこくへと、ゆる勾配こうばいを作っている一帯の高原には、彼の故郷の国定村も、彼が売出しの当時、島村伊三郎を斬った境の町も、彼が一月前に代官を斬った岩鼻の町もあった。

国越くにごえをしようとする忠次の心には、さすがに淡い哀愁が、感ぜられていた。 が、それよりも、現在一番彼の心を苦しめていることは、乾児の始末だった。 赤城へ籠った当座は、五十人に近かった乾児が、日数がつに連れ、二人三人ひそかに、山をくだって逃げた。 捕方の総攻めをったときは、二十七人しか残っていなかった。 それが、五六人は召捕られ、七八人は何処ともなく落ち延びて、今残っている十一人は、忠次のためには、水火をも辞さない金鉄の人々だった。 国を売って、知らぬ他国へ走る以上、この先、あまりいい芽も出そうでない忠次のために、一緒に関所を破って、命を投げ出してくれた人々だった。 が、代官を斬った上に、関所を破った忠次として、十人余の乾児を連れて、他国を横行することは出来なかった。 人目に触れない裡に、乾児の始末を付けてしまいたかった。 が、みんなと別れて、一人ぎりになってしまうことも、いろいろな点で不便だった。 自分の目算通もくさんどおりに、信州追分おいわけの今井小藤太の家に、ころがり込むにしたところが、国定村の忠次とも云われた貸元が、乾児の一人も連れずに、顔を出すことは、沽券こけんにかかわることだった。 手頃の乾児を二三人連れて行くとしたら、一体誰を連れて行こう。

序章-章なし
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入れ札 - 情報

入れ札

いれふだ

文字数 9,374文字

著者リスト:
著者菊池 寛

底本 藤十郎の恋・恩讐の彼方に

青空情報


底本:「藤十郎の恋・恩讐の彼方に」新潮文庫、新潮社
   1970(昭和45)年3月25日初版発行
   1990(平成2)年1月15日第34刷
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年7月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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