序章-章なし
妻智恵子が南品川ゼームス坂病院の十五号室で精神分裂症患者として粟粒性肺結核で死んでから旬日で満二年になる。
私はこの世で智恵子にめぐりあったため、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の廃頽生活から救い出される事が出来た経歴を持って居り、私の精神は一にかかって彼女の存在そのものの上にあったので、智恵子の死による精神的打撃は実に烈しく、一時は自己の芸術的製作さえ其の目標を失ったような空虚感にとりつかれた幾箇月かを過した。
彼女の生前、私は自分の製作した彫刻を何人よりもさきに彼女に見せた。
一日の製作の終りにも其を彼女と一緒に検討する事が此上もない喜であった。
又彼女はそれを全幅的に受け入れ、理解し、熱愛した。
私の作った木彫小品を彼女は懐に入れて街を歩いてまで愛撫した。
彼女の居ないこの世で誰が私の彫刻をそのように子供のようにうけ入れてくれるであろうか。
もう見せる人も居やしないという思が私を幾箇月間か悩ました。
美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識というようなものだけでは決して生れない。
そういうものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあっても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。
それは神の愛である事もあろう。
大君の愛である事もあろう。
又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。
自分の作ったものを熱愛の眼を以て見てくれる一人の人があるという意識ほど、美術家にとって力となるものはない。
作りたいものを必ず作り上げる潜力となるものはない。
製作の結果は或は万人の為のものともなることがあろう。
けれども製作するものの心はその一人の人に見てもらいたいだけで既に一ぱいなのが常である。
私はそういう人を妻の智恵子に持っていた。
その智恵子が死んでしまった当座の空虚感はそれ故殆ど無の世界に等しかった。
作りたいものは山ほどあっても作る気になれなかった。
見てくれる熱愛の眼が此世にもう絶えて無い事を知っているからである。
そういう幾箇月の苦闘の後、或る偶然の事から満月の夜に、智恵子はその個的存在を失う事によって却て私にとっては普遍的存在となったのである事を痛感し、それ以来智恵子の息吹を常に身近かに感ずる事が出来、言わば彼女は私と偕にある者となり、私にとっての永遠なるものであるという実感の方が強くなった。
私はそうして平静と心の健康とを取り戻し、仕事の張合がもう一度出て来た。
一日の仕事を終って製作を眺める時「どうだろう」といって後ろをふりむけば智恵子はきっと其処に居る。
彼女は何処にでも居るのである。
智恵子が結婚してから死ぬまでの二十四年間の生活は愛と生活苦と芸術への精進と矛盾と、そうして闘病との間断なき一連続に過ぎなかった。
彼女はそういう渦巻の中で、宿命的に持っていた精神上の素質の為に倒れ、歓喜と絶望と信頼と諦観とのあざなわれた波濤の間に没し去った。
彼女の追憶について書く事を人から幾度か示唆されても今日まで其を書く気がしなかった。
あまりなまなましい苦闘のあとは、たとい小さな一隅の生活にしても筆にするに忍びなかったし、又いわば単なる私生活の報告のようなものに果してどういう意味があり得るかという疑問も強く心を牽制していたのである。
だが今は書こう。
出来るだけ簡単に此の一人の女性の運命を書きとめて置こう。
大正昭和の年代に人知れず斯ういう事に悩み、こういう事に生き、こういう事に倒れた女性のあった事を書き記して、それをあわれな彼女への餞とする事を許させてもらおう。
一人に極まれば万人に通ずるということを信じて、今日のような時勢の下にも敢て此の筆を執ろうとするのである。
今しずかに振りかえって彼女の上を考えて見ると、その一生を要約すれば、まず東北地方福島県二本松町の近在、漆原という所の酒造り長沼家に長女として明治十九年に生れ、土地の高女を卒業してから東京目白の日本女子大学校家政科に入学、寮生活をつづけているうちに洋画に興味を持ち始め、女子大卒業後、郷里の父母の同意を辛うじて得て東京に留まり、太平洋絵画研究所に通学して油絵を学び、当時の新興画家であった中村彝、斎藤与里治、津田青楓の諸氏に出入して其の影響をうけ、又一方、其頃平塚雷鳥女史等の提起した女子思想運動にも加わり、雑誌「青鞜」の表紙画などを画いたりした。
それが明治末年頃の事であり、やがて柳八重子女史の紹介で初めて私と知るようになり、大正三年に私と結婚した。
結婚後も油絵の研究に熱中していたが、芸術精進と家庭生活との板ばさみとなるような月日も漸く多くなり、其上肋膜を病んで以来しばしば病臥を余儀なくされ、後年郷里の家君を亡い、つづいて実家の破産に瀕するにあい、心痛苦慮は一通りでなかった。
やがて更年期の心神変調が因となって精神異状の徴候があらわれ、昭和七年アダリン自殺を計り、幸い薬毒からは免れて一旦健康を恢復したが、その後あらゆる療養をも押しのけて徐々に確実に進んで来る脳細胞の疾患のため昭和十年には完全に精神分裂症に捉えられ、其年二月ゼームス坂病院に入院、昭和十三年十月其処でしずかに瞑目したのである。
彼女の一生は実に単純であり、純粋に一私人的生活に終始し、いささかも社会的意義を有つ生活に触れなかった。
わずかに「青鞜」に関係していた短い期間がその社会的接触のあった時と言えばいえる程度に過ぎなかった。