序章-章なし
それがしの宮の催したまひし星が岡茶寮の独逸会に、洋行がへりの将校次を逐うて身の上ばなしせし時のことなりしが、こよひはおん身が物語聞くべきはずなり、殿下も待兼ねておはすればと促されて、まだ大尉になりてほどもあらじと見ゆる小林といふ少年士官、口に啣へし巻烟草取りて火鉢の中へ灰振り落して語りは始めぬ。
わがザックセン軍団につけられて、秋の演習にゆきし折、ラァゲヰッツ村の辺にて、対抗は既に果てて仮設敵を攻むべき日とはなりぬ。
小高き丘の上に、まばらに兵を配りて、敵と定めおき、地形の波面、木立、田舎家などを巧に楯に取りて、四方より攻寄するさま、めづらしき壮観なりければ、近郷の民ここにかしこに群をなし、中に雑りたる少女らが黒天鵝絨の胸当晴れがましう、小皿伏せたるやうなる縁狭き笠に草花插したるもをかしと、携へし目がね忙はしくかなたこなたを見廻らすほどに、向ひの岡なる一群きは立てゆかしう覚えぬ。
九月はじめの秋の空は、けふしもここに稀なるあゐ色になりて、空気透徹りたれば、残る隈なくあざやかに見ゆるこの群の真中に、馬車一輛停めさせて、年若き貴婦人いくたりか乗りたれば、さまざまの衣の色相映じて、花一叢、にしき一団、目もあやに、立ちたる人の腰帯、坐りたる人の帽の紐などを、風ひらひらと吹靡かしたり。
その傍に馬立てたる白髪の翁は角扣紐どめにせし緑の猟人服に、うすき褐いろの帽を戴けるのみなれど、何となく由ありげに見ゆ。
すこし引下がりて白き駒控へたる少女、わが目がねはしばしこれに留まりぬ。
鋼鉄いろの馬のり衣裾長に着て、白き薄絹巻きたる黒帽子を被りたる身の構けだかく、今かなたの森蔭より、むらむらと打出でたる猟兵の勇ましさ見むとて、人々騒げどかへりみぬさま心憎し。
「殊なるかたに心留めたまふものかな。」
といひて軽く我肩を拍ちし長き八字髭の明色なる少年士官は、おなじ大隊の本部につけられたる中尉にて、男爵フォン・メエルハイムといふ人なり。
「かしこなるは我が識れるデウベンの城のぬしビュロオ伯が一族なり。
本部のこよひの宿はかの城と定まりたれば、君も人々に交りたまふたつきあらむ。」
と言畢る時、猟兵やうやうわが左翼に迫るを見て、メエルハイムは馳去りぬ。
この人と我が交りそめしは、まだ久しからぬほどなれど、善き性とおもはれぬ。
寄手丘の下まで進みて、けふの演習をはり、例の審判も果つるほどに、われはメエルハイムと倶に大隊長の後につきて、こよひの宿へいそぎゆくに、中高に造りし「ショッセエ」道美しく切株残れる麦畑の間をうねりて、をりをり水音の耳に入るは、木立の彼方を流るるムルデ河に近づきたるなるべし。
大隊長は四十の上を三つ四つも踰えたらむとおもはるる人にて、髪はまだふかき褐いろを失はねど、その赤き面を見れば、はや額の波いちじるし。
質樸なれば言葉すくなきに、二言三言めには、「われ一個人にとりては」とことわる癖あり。
遽にメエルハイムのかたへ向きて、「君がいひなづけの妻の待ちてやあるらむ、」といひぬ。
「許し玉へ、少佐の君。
われにはまだ結髪の妻といふものなし。」
「さなりや。
我言をあしう思ひとり玉ふな。
イイダの君を、われ一個人にとりてはかくおもひぬ。」
かく二人の物語する間に、道はデウベン城の前にいでぬ。
園をかこめる低き鉄柵をみぎひだりに結ひし真砂路一線に長く、その果つるところに旧りたる石門あり。
入りて見れば、しろ木槿の花咲きみだれたる奥に、白堊塗りたる瓦葺の高どのあり。
その南のかたに高き石の塔あるは埃及の尖塔にならひて造れりと覚ゆ。
けふの泊のことを知りて出迎へし「リフレエ」着たる下部に引かれて、白石の階のぼりゆくとき、園の木立を洩るゆふ日朱の如く赤く、階の両側に蹲りたる人首獅身の「スフィンクス」を照したり。
わがはじめて入る独逸貴族の城のさまいかならむ。
さきに遠く望みし馬上の美人はいかなる人にか。
これらも皆解きあへぬ謎なるべし。
四方の壁と穹窿とには、鬼神竜蛇さまざまの形を画き、「トルウヘ」といふ長櫃めきたるものをところどころに据ゑ、柱には刻みたる獣の首、古代の楯、打物などを懸けつらねたる間、いくつか過ぎて、楼上に引かれぬ。
ビュロオ伯は常の服とおぼしき黒の上衣のいと寛きに着更へて、伯爵夫人とともにここにをり、かねて相識れる中なれば、大隊長と心よげに握手し、われをも引合はさせて、胸の底より出づるやうなる声にてみづから名告り、メエルハイムには「よくぞ来玉ひし、」と軽く会釈しぬ。
夫人は伯よりおいたりと見ゆるほどに起居重けれど、こころの優しさ目の色に出でたり。
メエルハイムを傍へ呼びて、何やらむしばしささやくほどに、伯。
「けふの疲さぞあらむ。
まかりて憩ひ玉へ。」
と人して部屋へ誘はせぬ。
われとメエルハイムとは一つ部屋にて東向なり。
ムルデの河波は窓の直下のいしづゑを洗ひて、むかひの岸の草むらは緑まだあせず。