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文づかひ

著者:森鴎外

ふみづかい - もり おうがい

文字数:13,111 底本発行年:1971
著者リスト:
著者森 鴎外
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序章-章なし

それがしの宮の催したまひしほしおか茶寮さりょう独逸会ドイツかいに、洋行がへりの将校次をうて身の上ばなしせし時のことなりしが、こよひはおん身が物語聞くべきはずなり、殿下も待兼まちかねておはすればと促されて、まだ大尉たいいになりてほどもあらじと見ゆる小林といふ少年士官、口にくわへし巻烟草まきタバコ取りて火鉢ひばちの中へ灰振り落して語りは始めぬ。

わがザックセン軍団につけられて、秋の演習にゆきし折、ラァゲヰッツ村の辺にて、対抗は既に果てて仮設敵を攻むべき日とはなりぬ。 小高き丘の上に、まばらに兵を配りて、敵と定めおき、地形の波面なみづら木立こだち田舎家いなかやなどをたくみたてに取りて、四方よもより攻寄せめよするさま、めづらしき壮観みものなりければ、近郷きんごうの民ここにかしこにむれをなし、中にまじりたる少女おとめらが黒天鵝絨ビロード胸当ミーデル晴れがましう、小皿伏せたるやうなるふち狭き笠に草花くさばな插したるもをかしと、たずさへし目がねいそがはしくかなたこなたを見廻みめぐらすほどに、向ひの岡なる一群きはだちてゆかしう覚えぬ。

九月はじめの秋の空は、けふしもここに稀なるあゐ色になりて、空気透徹すきとおりたれば、残るくまなくあざやかに見ゆるこの群の真中まなかに、馬車一輛いちりょうめさせて、年若き貴婦人いくたりか乗りたれば、さまざまのきぬの色相映じて、花一叢いっそう、にしき一団、目もあやに、立ちたる人の腰帯シェルベ、坐りたる人のぼうひもなどを、風ひらひらと吹靡ふきなびかしたり。 そのかたわらに馬立てたる白髪のおきな角扣紐つのボタンどめにせし緑の猟人服かりゅうどふくに、うすきかちいろの帽をいただけるのみなれど、何となくよしありげに見ゆ。 すこし引下がりて白きこま控へたる少女おとめ、わが目がねはしばしこれに留まりぬ。 鋼鉄はがねいろの馬のりごろも裾長すそながに着て、白き薄絹巻きたる黒帽子をかぶりたる身のかまえけだかく、今かなたの森蔭より、むらむらと打出でたる猟兵の勇ましさ見むとて、人々騒げどかへりみぬさま心憎し。

ことなるかたに心めたまふものかな。」 といひて軽くわが肩をちし長き八字髭はちじひげ明色ブロンドなる少年士官は、おなじ大隊の本部につけられたる中尉ちゅういにて、男爵だんしゃくフォン・メエルハイムといふ人なり。 「かしこなるは我がれるデウベンの城のぬしビュロオはくが一族なり。 本部のこよひの宿はかの城と定まりたれば、君も人々に交りたまふたつきあらむ。」 言畢いいおわる時、猟兵やうやうわが左翼に迫るを見て、メエルハイムは馳去かけさりぬ。 この人と我が交りそめしは、まだ久しからぬほどなれど、さがとおもはれぬ。

寄手よせて丘の下まで進みて、けふの演習をはり、例の審判も果つるほどに、われはメエルハイムとともに大隊長のしりえにつきて、こよひの宿へいそぎゆくに、中高なかだかに造りし「ショッセエ」道美しく切株残れる麦畑の間をうねりて、をりをり水音の耳に入るは、木立こだち彼方あなたを流るるムルデ河に近づきたるなるべし。 大隊長は四十の上を三つ四つもえたらむとおもはるる人にて、髪はまだふかきかちいろを失はねど、その赤きおもてを見れば、はやぬかの波いちじるし。 質樸しつぼくなれば言葉すくなきに、二言ふたこと三言みことめには、「われ一個人にとりては」とことわるくせあり。 にわかにメエルハイムのかたへ向きて、「君がいひなづけの妻の待ちてやあるらむ、」といひぬ。 「許し玉へ、少佐しょうさの君。 われにはまだ結髪いいなずけの妻といふものなし。」 「さなりや。 我言わがことをあしう思ひとり玉ふな。 イイダの君を、われ一個人にとりてはかくおもひぬ。」 かく二人の物語する間に、道はデウベン城の前にいでぬ。 そのをかこめる低き鉄柵てっさくをみぎひだりに結ひし真砂路まさごじ一線ひとすじに長く、その果つるところにりたる石門あり。 りて見れば、しろ木槿もくげの花咲きみだれたる奥に、白堊しろつち塗りたる瓦葺かわらぶきの高どのあり。 その南のかたに高き石の塔あるは埃及エジプト尖塔ピラミッドにならひて造れりと覚ゆ。 けふのとまりのことを知りて出迎へし「リフレエ」着たる下部しもべに引かれて、白石はくせききざはしのぼりゆくとき、園の木立をもるるゆふ日あけごとく赤く、階の両側ふたがわうずくまりたる人首じんしゅ獅身ししんの「スフィンクス」を照したり。 わがはじめて入る独逸貴族の城のさまいかならむ。 さきに遠く望みし馬上の美人はいかなる人にか。 これらも皆解きあへぬなぞなるべし。

四方よもの壁と穹窿まるてんじょうとには、鬼神きじん竜蛇りょうださまざまの形をえがき、「トルウヘ」といふ長櫃ながびつめきたるものをところどころにゑ、柱にはきざみたるけものこうべ、古代のたて打物うちものなどを懸けつらねたる、いくつか過ぎて、楼上ろうじょうに引かれぬ。

ビュロオ伯は常の服とおぼしき黒の上衣うわぎのいとひろきに着更きがへて、伯爵夫人とともにここにをり、かねて相識れる中なれば、大隊長と心よげに握手し、われをも引合はさせて、胸の底より出づるやうなる声にてみづから名告なのり、メエルハイムには「よくぞ来玉ひし、」と軽く会釈えしゃくしぬ。 夫人は伯よりおいたりと見ゆるほどに起居たちい重けれど、こころの優しさまみの色に出でたり。 メエルハイムをかたわらへ呼びて、何やらむしばしささやくほどに、伯。 「けふのつかれさぞあらむ。 まかりていこひ玉へ。」 と人して部屋へいざなはせぬ。

われとメエルハイムとは一つ部屋にて東向なり。 ムルデの河波は窓の直下ましたのいしづゑを洗ひて、むかひの岸の草むらは緑まだあせず。

序章-章なし
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文づかひ - 情報

文づかひ

ふみづかい

文字数 13,111文字

著者リスト:
著者森 鴎外

底本 舞姫・うたかたの記 他三篇

親本 鴎外全集第二巻

青空情報


底本:「舞姫・うたかたの記 他三篇」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年1月16日第1刷発行
   1992(平成4)年3月5日第21刷発行
底本の親本:「鴎外全集第二巻」岩波書店
   1971(昭和46)年12月刊
初出:「新著百種 第12号」吉岡書籍店
   1891(明治24)年1月28日
入力:kompass
校正:土屋隆
2006年3月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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