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文学のふるさと

著者:坂口安吾

ぶんがくのふるさと - さかぐち あんご

文字数:5,105 底本発行年:2000
著者リスト:
著者坂口 安吾
底本: 堕落論
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序章-章なし

シャルル・ペロオの童話に「赤頭巾あかずきん」という名高い話があります。 既に御存じとは思いますが、荒筋を申上げますと、赤い頭巾をかぶっているので赤頭巾と呼ばれていた可愛かわいい少女が、いつものように森のおばあさんを訪ねて行くと、おおかみがお婆さんに化けていて、赤頭巾をムシャムシャ食べてしまった、という話であります。 まったく、ただ、それだけの話であります。

童話というものには大概教訓、モラル、というものが有るものですが、この童話には、それが全く欠けております。 それで、その意味から、アモラルであるということで、仏蘭西フランスでは甚だ有名な童話であり、そういう引例の場合に、屡々しばしば引合いに出されるので知られております。

童話のみではありません。 小説全体として見ても、いったい、モラルのない小説というのがあるでしょうか。 小説家の立場としても、なにか、モラル、そういうものの意図がなくて、小説を書きつづける――そういうことが有り得ようとは、ちょっと、想像ができません。

ところが、ここに、およそモラルというものが有って始めて成立つような童話の中に、全然モラルのない作品が存在する。 しかも三百年もひきつづいてその生命を持ち、多くの子供や多くの大人の心の中に生きている――これは厳たる事実であります。

シャルル・ペロオといえば「サンドリヨン」とか「青髯あおひげ」とか「眠りの森の少女」というような名高い童話を残していますが、私はまったくそれらの代表作と同様に、「赤頭巾」を愛読しました。

いな、むしろ、「サンドリヨン」とか「青髯」を童話の世界で愛したとすれば、私はなにか大人の寒々とした心で「赤頭巾」のむごたらしい美しさを感じ、それに打たれたようでした。

愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さというものが何もない可憐かれんな少女が、森のお婆さんの病気を見舞に行って、お婆さんに化けている狼にムシャムシャ食べられてしまう。

私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、しかし、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。

その余白の中にくりひろげられ、私の目にみる風景は、可憐な少女がただ狼にムシャムシャ食べられているという残酷ないやらしいような風景ですが、然し、それが私の心を打つ打ち方は、若干やりきれなくて切ないものではあるにしても、決して、不潔とか、不透明というものではありません。 何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ、であります。

もう一つ、違った例を引きましょう。

これは「狂言」のひとつですが、大名が太郎冠者たろうかじゃを供につれて寺もうでを致します。 突然大名が寺の屋根の鬼瓦おにがわらを見て泣きだしてしまうので、太郎冠者がその次第をたずねますと、あの鬼瓦はいかにも自分の女房に良く似ているので、見れば見るほど悲しい、と言って、ただ、泣くのです。

まったく、ただ、これだけの話なのです。 四六版の本で五、六行しかなくて、「狂言」の中でも最も短いものの一つでしょう。

これは童話ではありません。 いったい狂言というものは真面目まじめな劇の中間にはさむ息ぬきの茶番のようなもので、観衆をワッと笑わせ気分を新らたにさせればそれでいいような役割のものではありますが、この狂言を見てワッと笑ってすませるか、どうか。 もっとも、こんな尻切しりきれトンボのような狂言を実際舞台でやれるかどうかは知りませんが、決して無邪気に笑うことはできないでしょう。

この狂言にもモラル――あるいはモラルに相応する笑いの意味の設定がありません。 お寺詣でに来て鬼瓦を見て女房を思いだして泣きだす、という、なるほど確かに滑稽こっけいで、一応笑わざるを得ませんが、同時に、いきなり、突き放されずにもいられません。

私は笑いながら、どうしても可笑おかしくなるじゃないか、いったい、どうすればいいのだ……という気持になり、鬼瓦を見て泣くというこの事実が、突き放されたあとの心のすべてのものをさらいとって、平凡だの当然だのというものを超躍した驚くべき厳しさで襲いかかってくることに、いわば観念の眼を閉じるような気持になるのでした。 逃げるにも、逃げようがありません。 それは、私達がそれに気付いたときには、どうしても組みしかれずにいられない性質のものであります。 宿命などというものよりも、もっと重たい感じのする、のっぴきならぬものであります。 これもまた、やっぱり我々の「ふるさと」でしょうか。

そこで私はこう思わずにはいられぬのです。 つまり、モラルがない、とか、突き放す、ということ、それは文学として成立たないように思われるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬがけがあって、そこでは、モラルがない、ということ自体が、モラルなのだ、と。

晩年の芥川龍之介あくたがわりゅうのすけの話ですが、時々芥川の家へやってくる農民作家――この人は自身が本当の水呑みずのみ百姓の生活をしている人なのですが、あるとき原稿を持ってきました。 芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば、親子共倒れの状態になるばかりなので、むしろ育たないことが皆のためにも自分のためにも幸福であろうという考えで、生れた子供を殺して、石油罐かんだかに入れて埋めてしまうという話が書いてありました。

芥川は話があまり暗くて、やりきれない気持になったのですが、彼の現実の生活からは割りだしてみようのない話ですし、いったい、こんな事が本当にあるのかね、と訊ねたのです。

すると、農民作家は、ぶっきらぼうに、それは俺がしたのだがね、と言い、芥川があまりの事にぼんやりしていると、あんたは、悪いことだと思うかね、と重ねてぶっきらぼうに質問しました。

芥川はその質問に返事することができませんでした。 何事にまれ言葉が用意されているような多才な彼が、返事ができなかったということ、それは晩年の彼が始めて誠実な生き方と文学との歩調を合せたことを物語るように思われます。

序章-章なし
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文学のふるさと - 情報

文学のふるさと

ぶんがくのふるさと

文字数 5,105文字

著者リスト:
著者坂口 安吾

底本 堕落論

青空情報


底本:「堕落論」新潮文庫、新潮社
   2000(平成12)年6月1日発行
   2004(平成16)年4月20日5刷
初出:「現代文學 第4巻第6号」
   1941(昭和16)年8月号
入力:うてな
校正:noriko saito
2006年7月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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